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7月になって





7月は京都にとって,祇園祭の月でもある。祇園祭の頃まで雨の日が続き,今年は九州方面の場所によって豪雨をもたらし

山崩れや洪水を起したりしている所もあったようだ。

毎年祇園祭りが過ぎると梅雨が上がり,本格的な夏となって暑い毎日が続く。

この頃から蝉が鳴き始める。ミンミン蝉で日中うるさいほどによく鳴く。毎年のことで蝉の鳴き声を聞いて夏が来たとの実感がわく。

今年は不思議なこと,祇園祭の行列をテレビでの中継放送を見る事が出来た。

丁度,くじ改めする場所からの中継であった。大人や子供も混じっての,くじ改めする風景が見られた。

くじ改めの所作は上手な人や,上手にゆかない人がいたりし,異なる所が興味深かった。

子供でも所作が上手に定まっている人もいた。

町角での辻回しもダイナミックて伝統が受け継がれている。

鉾が9台(前祭り)。山が14台(前祭り)。山が9台(後祭り)

山鉾町の事情によって現在は巡行していない山鉾は 鉾が1台 山が2台 あったようである。




京都 祇園祭り 山鉾巡行(動画)


祇園祭り くじ改め(動画)



以下はインタネットよりの引用

京都八坂神社(園社)の園祭

園祭は京都の八坂神社の祭りで、京都三大祭り(他は上賀茂神社下鴨神社葵祭平安神宮時代祭)、

さらに大阪の天神祭、東京の山王祭(あるいは神田祭)と並んで日本三大祭りの一つに数えられる。

また、岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭と並んで日本三大曳山祭の一つにも数えられる。

なお岐阜県高山市の高山祭、滋賀県長浜市の長浜曳山祭と並んで日本三大山車祭の一つともなっていて、日本を代表する祭である。

7月を通じて行われる長い祭りであるが、神輿渡御や山鉾巡行や宵山が中心となる。

宵山、宵々山には旧家や老舗での宝物の展示も行われるため屏風祭の異名がある。


屏風祭

また山鉾巡行では文化財が公道を巡るため動く美術館とも例えられる。


歴史

869年(貞観11年)、疫病の猖獗を鎮める祈願を込めて、卜部日良麿が66本の矛を立て、神輿3基を送り牛頭天王を祀り御霊会を行ったのがその起源であるという。

970年(安和3年)から毎年行うようになった。

室町時代に至り、四条室町を中心とする(旧)下京地区に商工業者(町衆)の自治組織両側町が成立すると、町ごとに風情を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。

その後、応仁の乱第二次世界大戦などでの中断はあるものの、現在も続いており、千年を超える歴史がある。

室町時代以来、園祭のクライマックスは山鉾巡行であったが、現在ではいわば「巡行の前夜祭」である宵山に毎年40万人以上の人が集まり盛り上がりを見せるため、

園祭といえば宵山を先に思い描く人も多
い。

ちなみに諺で時機を逃して用をなさないことを「後の祭り」というものがあるが、これは園祭の大一番である山鉾巡行・神幸祭神輿渡御が終わり、

この後の園祭がたいしてメインとなるものがないことからこの諺が言われるようになったとされる。

また、園祭は1966年(昭和41年)まで「前祭」(7月17日)と「後祭」(7月24日)の2回に分けて山鉾巡行を行っていた経緯があり、

「前祭」では山に加え豪華絢爛な鉾が多数巡行するのに対し、「後祭」では鉾の巡行が無く山のみの巡行で、

小規模であることからこの諺が言われるようになったという説もある。

1962年5月23日、山鉾29基が重要有形民俗文化財に指定された。

1979年2月3日、「京都園祭の山鉾行事」が、重要無形民俗文化財に指定された。

2009年9月30日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)政府間委員会により、「京都園祭の山鉾行事」が、無形文化遺産に登録された。

国指定重要有形・重要無形、両民俗文化財に指定されているものは全国で五件のみで、その内の一件である。

日程

かつては、旧暦6月に行われていたが、現在では7月に行われている。

新暦移行後も後述のように日程の変遷がある

鉾建て中の函谷鉾

くじ取り式

山鉾巡行の順番を決めるもの。室町時代から競争を避けるために行われるようになった。

ただし、先の巡行の先頭の長刀鉾、5番目の函谷鉾、21番目の放下鉾、22番目の岩戸山、23番目(先の巡行の最後)船鉾、あとの巡行の先頭の北観音山、

次の橋弁慶山、後の巡行の最後の南観音山は「くじ取らず」と呼ばれ、順序が予め決まっている。

京都市役所の市会議場で行われる。


くじ取り式(動画)


神輿洗い


神輿洗い(動画)


宵山・山鉾巡行

園祭のハイライト。元々は付け祭りだったが、こちらの方がはるかに大規模になった。

山鉾からは園囃子のコンチキチンという独特の節回しが聞かれる。

現在のような囃子ができたのは江戸時代から。

また、ゴブラン織りをはじめとする豪奢な山鉾の飾りも見どころの一つ。

前述の通り、かつては山鉾巡行自体が17日(前祭・さきのまつり)と24日(後祭・あとのまつり)の2度行われていたが、

1966年(昭和41年)より17日に統合された。

山鉾の数は現在は32基(鉾9基・前祭の山14基・後祭の山9基)で、これも時代によって変化している。

山鉾は長刀鉾を先頭に午前9時に四条烏丸を出発し、午前中から昼過ぎにかけてコースを回る。

稚児による斎竹(いみたけ)の注連縄切りやくじ改めなど見所は多岐に渡るが、目を引く見所の一つは辻回しと呼ばれる鉾の交差点での方向転換である。

鉾の車輪は構造上方向転換が無理なため路面に青竹を敷き水をかけ滑らして向きを90度変える。

巡行終了後は直ちに解体・収納される(長刀鉾の稚児は新町御池で鉾から降りる)。

以前は巡行時に鉾の上から囃し方が(ちまき)を観衆に投げていたが、落ちてきた粽を取り合い中年女性が怪我をしてからは危険とされ、

鉾の上から粽を投げるのは現在は原則禁止になっている。

ちなみにこの粽は厄除け用として作られており、笹の葉の中に餅は入っていない。

近年になって一部の鉾町が食用の粽も販売しているが極一部に留まっている。

尚、囃子方になる為には(一部例外はあるものの)鉾町の住民の男子であるか又は鉾町以外でも現役の囃子方の推薦を受けた子供に限られている。

現在は学区の統廃合で一部の学校は無くなってしまったが

昭和の時代には明倫小学校や本能小学校等の地元の男子児童で鉾の囃子方であることも普通に見られる光景であった。

ちなみに山鉾巡行時の引き手は町内の住人であったり、学生アルバイト、留学生、ボランテイアなど多岐に渡る。

昭和中期までは小さな舁山(かきやま)には車輪がついておらず神輿のように肩に担いでいたが現在は車輪付きとなっている。

また、山鉾には日本には存在しないエジプトのピラミッドやラクダなどが描かれたものが存在する。



祇園祭宵山風景(動画)


長刀鉾の引き初め(動画) 唯一の生身の稚児が乗る。その他は人形。



神幸祭・還幸祭(神輿渡御)


京都新聞動画ライブラリ-より
神幸祭り(動画)
大きなサイズで動画を見るをクリックする
迫力ある動画がみられる



こちらが本来の神社の中心行事。神幸祭は山鉾巡行で浄められた四条寺町にある御旅所へ、八坂神社から中御座神輿(なかござみこし)・

東御座神輿(ひがしござみこし)・西御座神輿(にしござみこし)の大神輿3基に召した神々が各氏子町を通って渡る神事。この夜から7日間滞在する。

974年(天延2年)に御旅所(現在と所在地は異なる)を朝廷より賜り、行われるようになった。

また子供神輿である東若御座神輿も参加する。

神幸祭は朝の雅やかな山鉾巡行とは打って変わって、夕刻より行われる神輿渡御は勇壮豪快で荒々しいのが特徴である。

3基の大神輿を総勢1000人以上もの勇猛な男達により担ぎ揉まれて神輿が暴れ狂う様は圧巻である。

いわゆる暴れ神輿というものである。神社からの宮出しを完了した3基の大神輿と1基の子供神輿は

祇園石段下
交差点の楼門前に集結しての揃い踏みにて神輿全基連合で勇壮に担ぎ上げられ練り暴れて、楼門前は歓声に涌きかえる。

その後は神輿はそれぞれ別ルートにて御旅所へ向かう。

朝に山鉾が動く美術館の名をほしいままに巡行した都大路を今度は神輿が勇壮に練り暴れながらの渡御を行い、

四条寺町の御旅所宮入りにて神幸祭での最後の豪快な練りを披露する。

山鉾巡行を園祭のハイライトと呼ぶならば、神輿渡御はまさしく園祭のクライマックスと呼ぶにふさわしいものである。

神輿の御旅所駐輿中に、誰とも言葉を交わすことなく御旅所を七夜お参りすれば、願いが叶うというのが無言参り。

還幸祭は神輿と神々が御旅所から各氏子町を通り、八坂神社へ還る神事。今度は山鉾町をも含めた八坂神社の広大な氏子地域を練り暴れながら八坂神社に宮入を行う。

八坂神社での宮入では、舞殿の周囲を3周する拝殿回しを行い、神輿3基がここぞとばかりに力を振り絞りながらの勇壮豪快な最後の練りを披露する。

舞殿前にて神輿の最後の暴れながらの揉みが終わり、神輿が舞殿に上げられ安置されると境内は消灯され漆黒の闇となり御霊遷しが行われ、

神輿に乗せられた祭神が本殿に戻され、神輿渡御は静かに終了するのである。

各種の郷土芸能

園祭の中では様々な郷土芸能も上演される。

鷺舞


津和野町祇園祭り 鷺舞神事(動画)


鷺舞(さぎまい)は白絹の羽を纏い、雌雄の鷺に扮した成人男性の舞い手2人が囃子に合わせて優雅に舞い踊る郷土芸能。

約600年前に存在した「笠鷺鉾」の周りで舞われていたが、江戸時代中期に途絶えた。

1956年(昭和31年)に鷺舞保存会が、園祭の鷺舞を伝えていた島根県津和野町から舞を逆輸入して復活させ、

経費を氏子組織(清々講社)が負担して八坂神社境内で奉納されていた。

鷺舞は山口市、潟上市にもある。浅草寺(台東区)の「白鷺の舞」も、これを参考にした。

通常は、宵山の16日と山鉾巡行・神幸祭の17日、花傘巡行・還幸祭の24日の3日間八坂神社境内で奉納されるが、

2006年(平成18年)以降は鷺舞保存会と神社、氏子組織の対立が深まったために行われず、代りに、子鷺踊りが奉納された。



子鷺踊り


上記の鷺舞をアレンジした新しい郷土芸能。上記と同様の白絹の羽を纏い、

舞台化粧並みの厚化粧をした小学生位の少年少女6名が優雅に可憐に舞い踊る。

通常は、10日の、お迎え提灯、16日の宵宮神賑奉納神事と24日の花傘巡行に登場、

2006年(平成18年)以降は上記の事情により大人の鷺舞の代役を務めるようになった。

子鷺踊りは津和野町潟上市にもある。


津和野町祇園祭 子鷺踊り(動画)


小町踊り

元禄時代に起源を持つ少女の踊り。近代に入って中絶したが、1962年(昭和37年)に白峯神宮で復活した。

園祭では、10日のお迎え提灯では小学生位の少女が、24日の花傘巡行では祇園東舞妓が、

いずれも元禄風の衣装、髪型、舞台化粧並みの厚化粧で、典雅に可憐に舞い踊る。

園祭音頭

1957年(昭和32年)に園祭復活10周年を記念して創作。10日のお迎え提灯、16日の宵宮神賑奉納神事に、

一般的なお揃いの浴衣を着て舞台化粧並みの厚化粧をした小学生位の少女多数が可憐に舞い踊る。

石見神楽

石見神楽は、石見地方に伝わる娯楽性の高い神楽

1973年(昭和48年)以降毎年、通常16日の宵山に八坂神社境内で奉納され、

御祭神スサノオヤマタノオロチ退治をはじめ、八坂神社や京都に所縁ある神話劇が演じられる。


京都祇園祭 石見神楽(動画)

万灯踊り

当時の八坂神社の名誉宮司作詞の歌詞を元に1968年(昭和43年)に創作。24日の花傘巡行に、

一般的なお揃いの浴衣を着て舞台化粧並みの厚化粧をした小学生位の少女多数が可憐に舞い踊る。

花街の踊り

市内には花街が6ヶ所有るが、その内の神社に近い4ヶ所のうち、2ヶ所ずつが交互で花傘巡行で踊りを披露する。

西暦奇数年
西暦偶数年

園田楽

六斉念仏踊り

7月24日の花傘巡行に久世六斎保存会が参加している。

稚児

園祭には稚児も参加する。



長刀鉾の稚児

現在では唯一、生身の稚児が乗る。他の鉾では人形となっている。

かつては船鉾を除く鉾に10歳前後の少年が稚児として乗っていた。

2000万円とも言われる費用がかかる為、京都市内の資産家等の家庭から禿(かむろ)と呼ばれる家来役の少年2名と共に選ばれ、祭りの年の6月頃に発表される。

7月1日の「お千度」(おせんど)を皮切りに数多くの行事に舞台化粧と同様の厚化粧で登場、13日午前中の「稚児社参」では狩衣に金の烏帽子で登場、

正五位少将」(大名と同等)の位を授かり、これ以降は女子の手を一切借りない。

17日の山鉾巡行では金襴の振袖に紋織りの袴、鳳凰の天冠で登場、禿を両脇に従え、鉾の中央で稚児舞を披露する。

綾戸国中神社(南区久世上久世町)の氏子から毎年2人が選ばれる。

こちらも、舞台化粧と同様の厚化粧で登場、額に黒と白の点を付ける。

13日午後の「稚児社参」では2名揃って白の狩衣に紫紋入りの括り袴、金の烏帽子で登場。

神幸祭・還幸祭では1名ずつ登場、衣装は同じだが稚児天冠を被り、胸に国中神社の御神体である木彫りの馬の首(駒形)を胸に掛け、

馬に乗って素戔嗚尊(すさのおのみこと)の和御魂(にぎみたま)が鎮まる中御座神輿(なかござみこし)の先導を務める。

神幸祭に先立ち八坂神社で行われる神事により駒形稚児は素戔嗚尊の荒御魂(あらみたま)の鎮まる御神体と一体となり、

それ自身が神の化身として役目を終えるまで一切地に足を着けずに務める。

通常は神社の境内では長刀鉾の稚児はもとより皇族であっても下馬しなければならない(皇族下馬)が、

久世駒形稚児は八坂神社境内に入っても下馬せず騎馬のまま本殿に乗りつける。

馬長稚児

お迎え提灯と花傘巡行には舞台化粧と同様の厚化粧をしてカラフルな水干を着た少年3名が馬長稚児(うまおさちご)として馬に乗って登場する。



山鉾一覧

山鉾の源流は大嘗祭で曳かれていた標山であると考えられているが、

一部ではインドのオリッサ州地方で行われる4月の祭礼ラタ・ヤットラ祭の山車が山鉾のモデルになったものではないか、と言われている。

2008年に行われた重量測定によると、長刀鉾、函谷鉾、鶏鉾、月鉾といった大型の鉾は10トン前後、その他の山鉾は0.5?1トンの重量であったという。

山は大型の鉾と同じ様な規模の曳山(ひきやま)と小型で神輿の様に担いで巡行する舁山(かきやま)とがある。

前述の様に現在では舁山にも車輪が付いている。傘鉾は往時は人が傘を手に持ち巡行していたが現在は台車に乗せられている。

(鉾前祭 

※印は、くじ取らず

 

神輿一覧

女人禁制とその緩和


婦人並びに忌中の者は鉾上には上がれない

江戸時代初期まで女性が参加していたことを示す資料が残っているが、江戸時代中期以降は女人禁制とされてきた。

これは過去に女人禁制を解いて女性が鉾に登った際に鉾が倒れて怪我人が出たり巡行不可能になった事が近年も含めて何度か有り

(トンネル工事の現場に女性を入れないのと同じように)縁起担ぎの面が強い。

現在も、ほとんどの山鉾と巡行の先頭に立つ長刀鉾などは巡行時に女人禁制の伝統を守っているが、

近年では宵山飾りの時には女性が乗れる山鉾もある。

又、女性の参加を希望する山鉾町(保存会)がいくつかあり、

2001年(平成13年)に各山鉾町の判断で園祭山鉾連合会に届け出るという形で女性の参加を容認する方針が決まり、

南観音山で2名・函谷鉾で3名の女性囃子方の巡行参加が一部で認められた。

日本全国の園祭

各地の祭礼への影響伝播

園祭のうち、とりわけ(広義の)山車囃子といった山鉾巡行に関する要素は、これが都において町衆・町人階層が執り行う最も華やかな祭礼行事であるところから、

その強い影響が全国各地の祭礼、とりわけ城下町などの町人が行う祭礼に広く伝播している。

また、園祭という名称自体も、同祭神である牛頭天王やスサノオを祀る各地の社寺祭礼の名称として、

また単に夏祭りの名称としても、全国各地で広く用いられている。

全国各地の主な園祭

日本三大祭
祇園祭(京都市、八坂神社)、天神祭(大阪市、大阪天満宮)、神田祭(東京都、神田明神);


天神祭り(動画)

神田祭り(動画)

日本三大夏祭
祇園祭(京都市、八坂神社)、天神祭(大阪市、大阪天満宮)、山王祭(東京都、日枝神社)



祇園祭りは歴史が古く祭りと言えば祇園祭が必ず入るようである。

大体の祇園祭りの様子は判ってきたが大きな祭りなので完全に理解するのはまだまだである。

祭りの「コンコンチキチキ」の音色は広く知れ渡り,子供の頃よりなじみが深い。

日本三大祭中でも祇園祭はなんとなく優雅さを感じるのは京都人間の勝手な身びいきによるものだろうか。

現在途絶え休んでいる大舩鉾(おおふねぼこ)の復活の新聞報道記事があった。

以下京都新聞の記事の引用

 江戸時代まで祇園祭・山鉾巡行のトリを飾り、幕末の大火で焼失して休み鉾となっていた「大船(おおふね)鉾」が、

巡行復帰を目指して準備を進めていることが、12日に分かった。

四条町大船鉾保存会(京都市下京区新町通四条下ル)が今年のくじ取り式にオブザーバーとして出席するほか、

来夏以降、鉾再建のために広く支援を呼び掛ける。かつては最大級の鉾だっただけに、「33基目」の山鉾復興への期待は大きい。

 江戸時代の文献によると、神功皇后が遠征した説話に基づき、当時は「出陣」と「凱旋(がいせん)」の2基の船鉾があった。

焼失した「凱旋」の船鉾は、現存する「出陣」の船鉾よりひと回り大きく、大船鉾と呼ばれた。

山鉾巡行が2日に分かれていた時代に、後祭(あとまつり)の最後尾を務めていたという。

 しかし、1864(元治元)年に起きた蛤御門(はまぐりごもん)の変で、京都は大火に見舞われ、大船鉾の本体は焼失した。

幸い、神功皇后の御神面をはじめ、前掛や後掛(見送)など豪華な懸装品の多くは難を逃れた。

 1870(明治3)年には、御神面を唐櫃(からひつ)に載せて巡行に参加したが、完全復興には至らなかった。

ただ、宵山で御神面や懸装品を飾る「居祭り」は受け継がれ、1997年には大船鉾の囃子(はやし)も復活させた。

次世代のリーダーも熱心に活動し、復興に向けた機運が徐々に高まっていた。

御神面や懸装品は、2007年に市有形民俗文化財に指定された。

 保存会は、復興に向けた支援の受け皿づくりとして、今年4月に一般財団法人となった。

さらに税制上の優遇を受けやすい公益財団法人の取得を目指し、来夏以降、鉾再建への支援を市民や企業、民間団体に呼び掛けるなど、

復興に向けて本格的に動きだす。今年のくじ取り式には、オブザーバーながら代表が出席、手順などを見学する。

 四条町大船鉾保存会の松居米三理事長(77)は「まだ時期は明言できないが、必ず復興したい。

多くの方々のご支援を受けながら、一歩ずつ前進させたい」と話している。

・早く勇姿見たい

 祇園祭山鉾連合会の深見茂理事長の話 保存会の方々が努力したからこそ、ここまで進んだ。

重要無形民俗文化財の山鉾行事の形を変えるには、国などとの協議が必要で、クリアすべき問題はあるが、早く大船鉾の勇姿を見たい。

休み鉾(山) 記録に残りながら本体や懸装品などを焼失し、巡行に参加していない山鉾。

1864年の大火で焼失した山鉾も多い。大船鉾のほかに、鷹(たか)山と布袋山がある。









めったに泣かない人の涙は胸を打つ。
W杯のパラグアイ戦を終えた日本代表も
多くが頬(ほお)をぬらしていた。








平成22年7月1日の天声人語よりの引用

先の冬季五輪で女子フィギュアを制した金妍児(キム・ヨナ)選手は、

フリーの演技を終えると、泣きながら手を振った。

氷のハートを思わせる彼女。

演技後の涙は初めてという。

重圧のほどを知り、韓国中がもらい泣きしたそうだ

▼めったに泣かない人の涙は胸を打つ。

W杯のパラグアイ戦を終えた日本代表も、多くが頬(ほお)をぬらしていた。

仲間の泣き顔に、完全燃焼はおれも同じだと涙でこたえる、そんな絵に見えた。

こみ上げる思いは、真夜中の列島も湿らせた


▼0―0の末のPK戦。

選手の髪に、ちぎれた芝がついている。

延長戦まで120分を走り、転がり、精根尽きた男たちが、肩を組んで祈った。

敗者を作るための儀式は、いつも非情である

▼4戦とも、人数をかけて泥臭く守った。

体格で劣ろうが、激しく動き回り、少ない決定機を待った。

たびたびの円陣と、「このチームでもっと」のコメントが示すように、控えや裏方を含む結束も素晴らしかった

▼結束、連帯は、南アフリカ大会のキーワードでもある。

出稼ぎで都市に出た黒人にとって、サッカーは横につながる唯一の場だったのに、黒人参加のプロリーグは人種差別につぶされた。

苦難の時を経て、W杯開催の誉れを手にした人々だ。

わが代表の健闘にも励まされたかと思う

▼乾いた日々が続く。

結果こそ悔しいが、もらい泣くほどの共感もたまにはいい。

国民をやきもきさせ、夢中にし、元気づけた岡田ジャパン。

世界を驚かせ、燃え尽きてなお、未知の成果を持ち帰る。

もう一つの「はやぶさ」を、熱い拍手で迎えたい。






日本中で熱戦を見ていてテレビの視聴率が一時的に60パ-セントまで上昇したと報道されている。

殆んどの日本人は日本チームを応援していたと思う。自分自身も勿論日本が勝つようにと応援していた。

だが0-0でPK戦に持ち込まれて敗退した。だが日本チ-ムを応援していた気持ちは純粋な愛国心でもってのことである。

一部の政治家が言うような日本人は愛国心が゜不足しているから,学校での愛国心教育が必要だと説くのは戦前のような

愛国心を持たせようとの意図がある。これは全く偏った見方で再び.恐ろしい世の中になることを危惧する。










唾液(だえき)の成分からがんを見つける技術が生まれたそうだ








平成22年7月2日の天声人語よりの引用


江戸時代の人相見、水野南北は〈黙って座ればピタリと当たる〉とはやされた。

精進の始まりは、その道の達人に「死相が出ておる」と言われたこと。

生地大阪で極道を気取っていた頃の話だ

▼南北は、己の凶相を消さんと粗食に努め、やがて人の吉凶は食生活が左右するとの考えに至る。

運命さえも飲食で変えられるという、観相師らしからぬ前向き思考である。

なるほど、人生をつつがなく送るヒントは、顔面ではなく口中に潜むらしい

▼唾液(だえき)の成分からがんを見つける技術が生まれたそうだ。

慶応大先端生命科学研究所(山形県鶴岡市)と米カリフォルニア大ロサンゼルス校が、

がんの種類ごとに、患者と健常者で濃度が隔たるアミノ酸などの物質を突き止めた。

例えば膵臓(すいぞう)がん患者は、グルタミン酸の濃度が高かったという

▼これらの物質を組み合わせると、膵臓がんで99%、乳がんで95%、口腔(こうくう)がんでも80%の患者を判別できた。

X線や血液検査より簡便で、症状が出にくいがんの早期発見に役立ちそうだ。

〈黙ってなめればピタリと当たる〉を期待したい

▼『だまってすわれば』(新潮社)で南北の生涯を描いた作家、神坂(こうさか)次郎さんによると、

その命運学は「的中を誇らず、人を救う」を旨とした。

占いから食説法へという異色の遍歴にも合点がいく

▼科学の進歩とはありがたいもので、唾液が病を教えてくれる時代はもはや眉つばではない。

きょうを生きながらえれば、あすには命を延ばす新発見もあろう。

まずは飽食を慎み、楽天を心がけるべし。

どんな顔だろうと。





癌を見つけるために血液の腫瘍マ-カ-は日常使われているが,唾液から判るとなると本当だろうかと疑いたくなる。

でも本当だったらすい臓がんが99% i乳がんが96%は素晴らしい成績である。

信じられない数字である。さらに新聞には

膵臓がんは、早期段階では特徴的な症状がない上、他の臓器に囲まれているため見つけにくく、進行して見つかる場合が多い。

実用化のためには、がんと診断されていない人を対象にした試験や、唾液の状態による影響、早期がんの患者にも有効なのかの確認など、

さらにデータの蓄積と検証が必要になるという。

この分野に詳しい静岡県立静岡がんセンター研究所の楠原正俊医師は「唾液のような液体に含まれる物質を

一度に何百種類も分析できる方法自体が画期的。

既存の血液による検査方法では早期がんの検出は難しい。早期がんが発見できるかに注目していきたい」と話すと報道されている。

これからまだまだのようである。









民主党は「V」の余勢で参院選を戦うはずだった







平成22年7月3日の天声人語よりの引用


〈Tシャツの男がS字カーブでUターン〉。

アルファベットは形を言い表すのに重宝する。

ただ、26字でも間に合わないのが不規則に動くものだ。

この時節で思いつくのは、カタツムリと内閣支持率か

▼前首相の退陣表明から1カ月が過ぎた。

幹事長を道連れにした功で支持率はV字回復し、グラフの続きは高原型、記号でいえば「√(ルート)」になるかと思われた。

民主党は「V」の余勢で参院選を戦うはずだった

▼ところが、菅首相が消費税10%に言い及んで風向きが変わり、支持率はロシア文字の「И(イー)」を描こうとしている。

慌てて低所得層への払い戻しを「口約」するなどバタバタだ。

準備不足の政策を選挙戦術で持ち出したツケだろう

▼メディアに終日さらされ、菅さんは妙な軽さを見せ始めた。

外交デビューのカナダでは、エマージング・カントリー(新興国)と言うべきところをエマージェンシー・カンパニー(緊急会社?)。

言い間違いと侮るなかれ。

首相のうっかりは国益を損ねもする


▼そんな折、今や一兵卒のはずの前幹事長が、マニフェストを守れと執行部批判に出ている。

「И」字に高ぶったか、小沢グループは秋の代表選にて一戦交える勢いで、分裂選挙の兆しさえある

▼かすむ公約、軽い言葉、派閥抗争。

有権者がとうに見限ったあれやこれやの再来は、もはや与党病と呼ぶべきか。

疑問だらけの政治に似合う記号は当然「?」である。


その形をなぞってみる。

上がるだけかと思いきや、くるりと回って真っ逆さま、果ては露と消え……。

大丈夫ですか、菅さん。




菅首相の消費税値上げの発言が参議院選挙で影響して民主党は惨敗している。

国民に充分に目を向けた政治をやってほしいものである。

消費税は上げませんと言って当選した途端に値上げする人に比べてはましであるが。









爬虫類(はちゅうるい)を元祖に、
両生類から昆虫、その他大勢も表して、
虫偏は生き物の一大勢力をなす








平成22年7月4日の天声人語よりの引用


人は蛇を怖がるか、蜘蛛(くも)を怖がるか、どちらかだということを劇作家の故・木下順二さんが書いていた。

脚のあるものとないもの、どちらが苦手か、という二分法だろう。

ご自身は蛇なら平気だが、大きな蜘蛛を見ると総毛立ったらしい

▼「蜘蛛」という字を書いただけで、体がざわざわしたそうだ。

思えば「虫偏」の漢字は不遇である。

先の小欄で、蛞蝓(なめくじ)や蚯蚓(みみず)といった虫偏を並べたら、書きながら字づらの“迫力”にたじろがされた。

だが、「虫たちも生きているんです」という優しい便りをいくつか頂戴(ちょうだい)した

▼「虫」の字はもともと、ヘビの象形なのだという。

柔らかい篆書(てんしょ)体の字を見ると、なるほどヘビがくねる姿に似ている。

爬虫類(はちゅうるい)を元祖に、両生類から昆虫、その他大勢も表して、虫偏は生き物の一大勢力をなす

▼ルナールの『博物誌』にも虫偏が色々登場する。

蛇を天敵にする蛙(かえる)の項もある。

「睡蓮(すいれん)の広い葉の上に、青銅の文鎮のようにかしこまっている」などと、あの神妙な思索顔を描いていて楽しい

だが近年、その蛙族の受難がよく伝えられる。

開発や農薬に追われ、感染症にも脅かされている。

先日は北九州市の川沿いで片脚のない蛙が大量に見つかった

▼原因は不明という。

災いの発端が、ささいな異変として表れることもあるから気味が悪い。

ありふれた虫偏の生き物たちが、当たり前に周りにいる尊さを、いま一度胸に刻みたい。

〈小蟻(あり)どもあかき蚯蚓のなきがらを日に二尺ほど曳(ひ)きて日暮れぬ〉啄木。

わが命につらなる、小さきものたちの営みである。



虫は嫌われる方が多い。虫のすかない人達が多い世の中で虫も受難の多い時期には人間も虫に心を向ける必要がある。








きのう、大嶽親方と大関琴光喜関への処分が正式に下りた
それぞれ解雇である
現役大関が解雇されるのは初めてという








平成22年7月5日の天声人語よりの引用

 きのうに続いて虫偏の生き物だが、蜥蜴(とかげ)は「尻尾(しっぽ)切り」で知られる。

切られた後も尻尾は動き回り、敵の目を引きつける役目を果たしてけなげだ。

野球賭博問題で、メディアに出ては涙する大相撲の大嶽親方に、どこかその図が重なり合う

▼トカゲの尻尾はしばらくすると再生する。だが、新しく生えたものには切り離す機能はないそうだ。

つまり生涯に一度しか使えない奥の手なのだという。

ひるがえって日本相撲協会である。

これまで何度、この手に頼ってきたことだろう

▼きのう、大嶽親方と大関琴光喜関への処分が正式に下りた。

それぞれ解雇である。現役大関が解雇されるのは初めてという。


ことの深刻さに当然と思いつつ、どこか腹に落ちないのは、不祥事のたびに見てきた「尻尾切り」のゆえだろう

▼2人を除けば、責任の取らせ方は甘くはないか。

名古屋場所は実態をつかむ前に開催が決まった。

武蔵川理事長も謹慎が明ければ続投するそうだ。

その他あれこれ、またぞろ「懺悔(ざんげ)芝居」ではないのかと、勘ぐりを入れてみたくなる

▼リンチ事件、大麻汚染、横綱の暴行騒動、そして賭博。

そのつど毒草をむしっても、土壌が変わらないから次から次に新手が生える。


対症療法はとうに限界なのに、当の協会だけが気づいてこなかった

▼〈さまざまの事件がありてこのごろは蜥蜴の顔が美貌(びぼう)に見ゆる〉。

小紙歌壇の選者高野公彦さんの一首は、あたかも今の角界を詠んだかのようだ。

ここを土俵際と組織、意識の改革を進めなくては、賢者の顔をしたトカゲに笑われる。





相撲社会は閉鎖的で封建的で,人気稼業なので悪い噂の影響は大きい。相撲の歴史は充分あり,芸能界と同じく水商売で暴力団との繋がりが

生じ易い体質を持っている。一方では国技とも言われ,i日本人には根ずよい人気がある。

今回暴力団との関係を断つ絶好の機会でもあり,賭博などに対しては厳重な監視が必要である。









昭和から平成のバブル期を駆け抜けたオグリキャップが、
余生を送る北海道で死んだ
天寿に近い25歳だった







平成22年7月6日の天声人語よりの引用


馬の名で浮かぶ時代がある。

シンザンなら1960年代の高度成長、それが終わる70年代を連れてくるのは怪物ハイセイコーか、

悲劇のテンポイントか。

シンボリルドルフで80年代を、ナリタブライアンで90年代を思う人も多かろう

▼昭和から平成のバブル期を駆け抜けたオグリキャップが、余生を送る北海道で死んだ。

天寿に近い25歳だった。

放牧中、右後ろ脚を骨折した状態で見つかったという。

ぬいぐるみが出回るほどのアイドルは、女性を競馬に呼び込んだ立役者でもある

▼デビューの地、岐阜の笠松競馬では「東海に敵なし」。

中央競馬に移っても勝ち続けたが、未登録の日本ダービーなどは走れなかった。

不遇への同情と、実力一つで地方を出、中央のエリートたちを負かす物語がファンを熱くした

▼衰えが見え始めた90年、秋の重賞で惨敗が続き、迎えた有馬記念は引退レースに。

最後を見届けようと18万人が埋めた中山競馬場で、オグリは21歳の武豊騎手に手綱を任せ、有終の美を飾る。

できすぎたラストランを、大観衆の喝采と涙が包んだ


▼最終コーナーから一気の加速で、通算32戦22勝。

だが、種馬としての実績は寂しかった。

二流の血統から生まれ、七光りも残さない「一代限り」に覚える快さは、世襲への食傷ゆえだろう

▼灰色の芦毛(あしげ)は年齢を重ねるごとに白さを増す。

週末の昼下がり、脚を傷め、人知れず緑の上に横たわる白馬を思う。

その耳に、地鳴りのような「オグリコール」は響いていたろうか。

時代の音は、夢をありがとうの叫びは届いていたか。



競馬には興味が無いので詳しい事情はわからない。競馬ファンにとっては大事件なのかもしれない。

老兵は消えるのみなのかもしれない。








実は生放送ではなく、放送枠に収めるため
1〜2時間遅れで録画を流す
「ディレイ中継」の手法という
NHKが、大相撲の名古屋場所を中継しないと発表した







平成22年7月7日の天声人語よりの引用


テレビでゴルフの試合を見ていて、やけに日が高いなと思うことがある。

外は夕方なのに、画面の芝には選手の影が黒々と落ちている。

実は生放送ではなく、放送枠に収めるため1〜2時間遅れで録画を流す「ディレイ中継」の手法という

▼「運命の最終ホール」が映る時分には、勝者は祝杯を上げているはずだ。

テレビ局は視聴率を気にし、ネットに速報を流さないでと新聞社に頼むこともあるらしい。

スポーツ放送はライブが命。よほどのファンでもない限り、結果が割れている試合は味気ない

▼NHKが、大相撲の名古屋場所を中継しないと発表した。

野球賭博などの不祥事に、公共放送なりのけじめをつけたつもりだろう。

かたや受信料を払っている相撲ファンは、「生の迫力」という対価を失う

▼幕内の取組に限り、1〜2時間遅れで録画を流すという。

ひいきがいる向きには、きっと勝敗より取り口を確認する番組になる。

なにしろ、力士たちは風呂から上がった頃合いだ。

真剣勝負の臨場感は、どんな大画面でも伝わるまい

▼大相撲のテレビ中継は1953(昭和28)年に始まった。

「客が減る」との声もあったが、後に栃若時代を築く栃錦、若乃花の昇進期にあたり、国技館も茶の間も盛り上がった

▼謹慎休場が多い名古屋場所にも、白鵬の連勝記録など見どころはある。

しかし生放送の「や」が15並べば、半世紀を超えて相撲人気を支えてきたテレビ桟敷は多くの客を失おう。

これで相撲協会が反省しなければ、中継放棄というNHKの物言い、誰も幸せにしない。





生放送でない大相撲中継は勝負が判ってからの放送では興味が薄れる。

不祥事件を起してのことだから仕方ない。

興行には暴力団の影かちらつくのは仕方ないことだろうか。

叉暴力団根絶すればこのようなことは起きないと考えるのは常識的な考えと思うのだか

非常識なかんがえなのだろうか。









宅配便の競争は激しい
日本郵政グループの宅配便「ゆうパック」が
中元のかき入れ時に難渋した







平成22年7月8日の天声人語よりの引用


夕張メロンは熟すのが早く、食べ頃は収穫から3日までとも聞いた。

灰緑の玉が黄色を帯びたら、食すか、二つに割って冷蔵庫に入れるしかない。

熟しすぎると水っぽくなり、高級品が台無しだ

▼北のメロンにサクランボ、南からのマンゴーもあっただろう。

日本郵政グループの宅配便「ゆうパック」が、中元のかき入れ時に難渋した。

日本通運の「ペリカン便」を吸収したはいいが、荷の急増と現場の不慣れで滞り、遅配は34万個に及んだという

▼扱いの未熟が、預かり物の過熟を招く。

荷台で熟れる果実は1日の遅れが命取りだ。

暑さに弱いスズムシ、誕生日プレゼントも災難だった。

虚礼廃止の中、季節の進物をするにはそれなりの理由があろう。

傷物で届くなら手紙のほうがいい

▼現場には、繁忙期の統合を心配する声があったそうだ。

しかしペリカンを継いだ会社は月50億円もの赤字を垂れ流し、リストラは待ったなし。

集配拠点や、人や車を大して増やさないまま、倍の荷をさばく運びとなった

▼宅配便の競争は激しい。

ヤマト運輸が「官」と闘い、郵便小包の独占を突き崩した市場である。

昨年度の国内シェアはヤマト41%、佐川急便が36%と、二強が増勢にある。

今度の失態は、ゆうパックの劣勢を決定づけかねない

▼物流の商いは、荷物と送り手の思いを一つ箱で運んで完結する。

せっかくの産地直送が、「不手際経由、おわび付き」では送り損だ。

混乱は収まっても、箱からこぼれ落ちた信用はたやすく戻るまい。

届けるという仕事、シンプルゆえに侮りがたい。





宅配便も郵便だけでなく,色んな業者が参入しているがどう違っているのかわからない。








民族学者の梅棹(うめさお)忠夫さんが老衰のため亡くなった享年90







平成22年7月9日の天声人語よりの引用


知のデパート」の静かなる閉店である。

享年90。民族学者の梅棹(うめさお)忠夫さんが老衰のため亡くなった。

生態学から文明批評へ、究めた領域と足跡は理系文系の垣を越えて広がる。

そしてどの「売り場」も千客万来だった

▼本人を前に、哲学者の鶴見俊輔さんが先見性をたたえたことがある。

「過去50年については、私の知る限りで最もよく当たった人です」と。

〈情報産業〉なる造語で今日を見通したのは半世紀近く前。

国家を語っても、女性や日本語を論じても眼識は鋭かった

▼「本というのは、しょせん誰かが先に言ったことが書いてあるだけ」と、文献より実地調査を重んじた。

世界を歩き回り、自らの耳目で紡いだ新説は独創にあふれ、時の常識を覆しもする。

「梅棹学」の真骨頂だろう

▼欧米への劣等感がくすぶる時代に、ユーラシア大陸の端という共通点から、日欧の文明を対等に論じた。

日本を特殊視する欧米人には「こんな事例は世界史にいくらもある」と反論し、返す刀で優越に浸る日本人を戒めた

▼米国から名高い社会学者が訪れた時である。

日本の学者はみな英語で話すのに、梅棹さんだけ通訳を介した。

いぶかるゲストに「私の考えは、私の英語で話すにはデリケートすぎる」。

楽しい会話は後輩たちを魅了し、いつも談論風発の中にいた

▼65歳で失明するも「雑用が減った」と前を向き、口述で活動を続けた。

書斎でもあった国立民族学博物館は、研究資料の扱いを思案中だという。

公開するならひと仕事だ。

なにせ梅棹デパート、在庫の量が半端でない。






学ぶべき立派な人達がいるが,学ぶだけでなく実地に調査して自分で確かめることだが,

なかなかに至難のようである。世の中矛盾だらけである。非常識が常識で,常識が異端とみなされる世の中。

学ぶだけでも大変なことである。だが世の中少なくとも普通の常識が通ずる世の中になってほしい。








上野の東京芸大美術館でシャガール展が始まった







平成22年7月10日の天声人語よりの引用

 鳥のように飛ぶ夢は、自由への渇望とも、抑圧の裏返しともいわれる。

20世紀絵画の巨匠シャガールはどんな夢を見ていたのだろう。

抱き合う恋人たち、動物、故郷の幻影。万物が画布を舞う

▼上野の東京芸大美術館でシャガール展が始まった(10月11日まで)。

仏ポンピドーセンターの作品群は、色鮮やかな夢のかけらを思わせる。

まとめての公開は初という歌劇「魔笛」の舞台装飾デッサンは、晩年、米メトロポリタン歌劇場に頼まれた仕事だ

▼帝政ロシア出身のユダヤ人画家にとって、劇場のあるニューヨークは悲しみの地でもある。

ナチスから逃れ来た異境で、30年連れ添った同郷の妻ベラに先立たれた。

放心の果ての一作「彼女を巡って」が美しい

▼深い青の中に、すすり泣く妻と自身、古里を映す水晶球を配し、上を新婚夫婦やハトが飛ぶ。

嘆きの主に7年寄り添った女性バージニア・ハガードが、制作中の姿を『シャガールとの日々』(西村書店、中山公男監訳)に記している

▼〈彼の顔は緊張し苦痛に満ちていた。

激しい憤りを感じているようにも見えた……ベラと共に消え去ってしまったものを、もう一度この世に呼び戻そうとしているのではないかと思うほどだった〉。

涙で溶いたような紺青だ

▼この絵と対照をなす「日曜日」は、65歳で再婚した頃の作。

菜の花色のパリの空を、新妻を抱いて遊覧する幸せの休日である。


嘆いては漂い、ほほえんでは舞うシャガール。

97年の生涯を満たした悲しみ喜びは、今すべてから解き放たれ、私たちの前に浮かんでいる。




シャガ-ルノの作品(画像)は病的にしか思えない









その思いを託す参院選投票日である。
かつての「郵政選挙」や去年の「政権交代」のような、
イエスかノーかの熱狂はない





平成22年7月11日の天声人語よりの引用


草笛といい草摘みといい、草という字はどこか明るい郷愁を誘う。

W杯が大詰めの南アフリカから、小紙記者が「草サッカー」の記事を書いていた。

日本の報道陣の即席チームと、大会スタッフらの南ア勢が一戦を交えたそうだ

▼サッカーに限らず、草野球も草競馬も、「草」がつくゆえに楽しげで牧歌的だ。

〈夏草やベースボールの人遠し〉の句が子規にある。

風に乗って歓声が聞こえる心地がする。

この「草」について辞書は、本格的なものに準ずる意味だと説明する

▼ゆるく楽しむ「草」はいい。

だが、プロが「草」のようでは困る。

近年のそれは「草政治」だろうか。

この4年で首相は5人も代わり、本格政権から遠い。

新与党は腰がふらつき、閉塞感(へいそくかん)を取り払えない

▼国民は程度に応じた政府しか持てない、と古くから言う。

だが先日の小紙に、作家の池澤夏樹さんが「どうも政府のレベルは国民のそれを下回ってきたようだ」と寄せていた。

「われわれの実力からすればもう少しましな政府は持てないものか」と。

肯(うなず)く向きもおられよう

▼その思いを託す参院選投票日である。

かつての「郵政選挙」や去年の「政権交代」のような、イエスかノーかの熱狂はない。


一票の意味はより複雑で多様だ。結果で政治はどう変わるのか。

悩ましいだけに、有権者は試される

▼子規の句をもじるなら、本土の空気は〈夏草や普天間問題はや遠し〉と相成った。

政治とカネもしかりである。


何事も忘れやすく、ぶれやすいのさ。

政治屋サンに舌を出されぬよう、吟味の眼(まなこ)を研ぎすます。





参議院選挙で民主党は大敗しているが,多数派であることは変わりない。

強硬採決のような手段は取れなくなり,他の党との充分な議論をし

国民が納得する形を取るような情勢になつてきている。







民主党政権に対して問われた昨日の参院選である
結果は改選議席の54に及ばず、
逆に落日の色の濃かった自民が勢いを伸ばした。








平成22年7月12日の天声人語よりの引用


 江戸の昔にも庄屋などの選挙があって、「入札(いれふだ)」と呼んでいた。

信を問うときには、信任なら「好(このむ)」と、不信任なら「きらい」と書いたそうだ。

6割の信任で現職留任とする古文書も残っていると、歴史学者の磯田道史さんの著書に教えられた

▼その「好」か「きらい」かが、民主党政権に対して問われた昨日の参院選である。

結果は改選議席の54に及ばず、逆に落日の色の濃かった自民が勢いを伸ばした。

与党は参院で過半数を割る。

古文書に従うなら、中間評価は落第となろうか

▼「政治家は次の時代を考え、政治屋は次の選挙を考える」と言う。

首相になって「最小不幸社会」を語ったときの菅さんは政治家だった。

だが支持率のV字回復に目がくらみ、やみくもに選挙を急ぎ出した頃から政治屋に変身したようだ。

そのあたり、国民は鈍感ではない

▼消費税の引き上げもしかりだろう。

提起した責任感と勇気はむしろ買う。

だが逆風が吹くとうろたえた。

説明はぶれ、言い訳をし、報道が良くないと言い出した。

正体見たり、の人もいたはずである

▼3年前の参院選は自民が歴史的な大敗をし、昨夏の政権交代へと続いた。

「君は舟なり、庶人は水なり」と中国の古典にある。

「水は舟を載せ、水は舟を覆す」と続く。


民衆は為政者を支えるが、不満ならひっくり返す。

新政権の誕生はそれを地でいった


▼その水が今度は新しい舟を揺さぶる。

期待感から揺り戻してきた逆波(さかなみ)だろう。

船底に穴が開いたかも知れない。

自覚と手当てを怠るなら、凪(なぎ)はいっそう遠のくことになる。





政治が暮らしに一番直結している。政治が悪ければ生活も良くなく

政治が良くなれば生活も向上する。

生活を良くするには政治が良くなければならない。

但し.政治を利用しの私利私欲をよくしようとする人たちにとっては

別の話だが。








日本人のタコのイメージは戯画的だ。
鉢巻きに口をとんがらせて、コリャコリャ踊る。
だが知能はかなり高いらしい






平成22年7月13日の天声人語よりの引用

「通勤で混(こ)み合う電車の中の広告に、真っ赤な蛸(たこ)の画(え)があった。

ねじ鉢巻きで、盃(さかずき)をもって踊ってる。

えらく景気のいい蛸だ。

蛸は自民党かもしれない」。

往年の名文記者、門田勲のユーモラスな一節だ。

高度成長期、かの党は我が世の春をうたっていた

▼参院選の開票からサッカーW杯決勝へなだれ込んだテレビを見つつ、ふと大先輩の筆を思い出した。

大した理由などない。

党勢を伸ばした谷垣総裁の得意顔と、スペインの優勝を当てた「予言ダコ」に、記憶の水底をつつかれただけである

▼ドイツの水族館のタコ「パウル君」は、いまや世界一有名な軟体動物だろう。

ドイツ代表の勝ち負けを、3位決定戦まですべて的中させた。

勢いに乗って他国同士の決勝も当て、「8戦外れなし」で予想屋や占師を青くさせた

▼好物の貝を入れて国旗を張った箱を二つ用意し、どちらを選ぶかで勝敗を占う。

当たりすぎの余波もあった。

お告げ通りドイツが負けると、「食べてやる」などと方々から八つ当たりされたそうだ。

人間嫌いにならなければいいが

▼門田も書いたように、日本人のタコのイメージは戯画的だ。

鉢巻きに口をとんがらせて、コリャコリャ踊る。

だが知能はかなり高いらしい。


犬なみに賢いという専門家もいる。

意外な予知能力が実はあるのかもしれない

▼〈占いのタコに聞きたい過半数〉と先の朝日川柳にあった。

選挙が終わって聞きたいのは「ねじれ政治」の行方だろうか。

右肩上がりの昭和を懐かしむ、どこか淋(さび)しき日本人に、さてパウル君は「勝ち」をくれるか。




タコの知能は3歳児ぐらいという研究者もいる。イルカほどとは言わないが賢いらしい。







亡くなったつかこうへいさんが
在日韓国人だったのはよく知られていた







平成22年7月14日の天声人語よりの引用


亡くなったつかこうへいさんが在日韓国人だったのはよく知られていた。

本名は金峰雄(キム・ボンウン)さんという。

平仮名のペンネームを使っていることに、同じ在日の人からよく「祖国の名誉にかけて本名を名乗るべきだ」と手紙をもらったそうだ

▼平仮名は、漢字の読めない母親のためだった。

つかさんが小学生のころ、母親が「小学校に通って字を習いたい」と言いだした。

「恥ずかしいから来ないでくれ」と反対した。

その償いを一生かけてしなくてはならないと、20年前の『娘に語る祖国』(光文社)で打ち明けている

▼「いつか公平」の願いを込めたというその名は、わが学生時代、まばゆい光を放っていた。

出世作の『熱海殺人事件』から『蒲田行進曲』へとヒットを連発した「つかブーム」のころだ。

劇作家として演出家として、才気走って脂がのりきっていた

▼ときに過激な発言を放ったのは、通り一遍の正義の「嘘(うそ)」を暴くためでもあったろう。

善意にも毒は潜み、悪意の中にも優しい花は咲く。

どちらが信じられるのかを、作品を介して人に迫るようでもあった

▼「芝居をやっていて、幕を下ろすほど難しいことはない」と言っていた。

この複雑な時代、観客を納得させるエンディングなど、そうあるわけではないからだ。

芝居に人生を重ねてのことか、病の床で死後公開の遺言をつづっていた

▼遺言は、日韓のはざまの対馬海峡で、娘に散骨してもらおうと思っていると結ばれていた。

美しい終幕だが、62歳での他界をファンは納得したくあるまい。

やはり少し、早すぎた。




つかこうへいは、在日韓国人の身分が「いつか公平」な世の中になるようにとの思いを込めて付けたと言われる。









地球規模の気候変動が言われる中、
昨日までの無事が今日の安全を
約束してくれないことを胸に畳みたい。






平成22年7月15日の天声人語よりの引用


 先の小欄で立葵(たちあおい)の花を「気っぷのいい脇役」と書いたら、

読者から女優の故沢村貞子さんの面影が浮かぶと便りをいただいた。

なるほどと思う。

すっきりと茎を伸ばして下から花を咲かせ、てっぺんまで咲くころ梅雨が明けるとされる

▼その時は近いようだ。

紫陽花(あじさい)はしぼみ、代わって百日紅(さるすべり)、夾竹桃(きょうちくとう)、

凌霄花(のうぜんかずら)といった炎天の花が咲き出した。

来週からは晴れマークが並ぶ。


だが、産みの苦しみならぬ「明けの苦しみ」と言うべきか、各地で雨が激しい。

列島に絡む前線が凶暴な竜に見えてくる

▼しぶきを上げて降る雨を「白雨(はくう)」という。

山深い長野の木曽地方では「白い雨が降ると蛇抜(じゃぬ)けが起こる」と伝わるそうだ。

山崩れや土石流のことをいう。

地形が急峻(きゅうしゅん)な列島は古くから「蛇抜け」に泣かされてきた

▼平安朝の白河法皇は、意のままにならぬものをあげて、

「賀茂河の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師(比叡山の僧兵)」と言ったそうだ。

賀茂川は暴れ川で水害が多かった。

時が流れた今にも通じる治水の難しさだろう

▼気象庁によれば、「バケツをひっくり返したよう」と感じる雨は1時間に30ミリ以上だという。

50ミリを超すと辺り一面が白っぽくなり、80ミリになると「恐怖を感じる」ほどになる。

それさえしのぐ100ミリ超の雨が、近年、方々で観測されている

▼地球規模の気候変動が言われる中、昨日までの無事が今日の安全を約束してくれないことを胸に畳みたい。

豊かな水に恵まれた国土の、裏返しの泣きどころである。

夏の高気圧が前線を追いやるまで、しばし気が抜けない




地球温暖化による地球の異変が進行している。工業先進国の排ガスが原因の一つだとされている。

アメリカの環境と環境政策

京都議定書










90歳を過ぎて詩を作り出し、産経新聞などに投稿してきた
評判になっている99歳、宇都宮市に住む柴田トヨさんの
初詩集『くじけないで』(飛鳥新社)を読んでみた






平成22年7月16日の天声人語よりの引用


「みずみずしい肌」は文字通り水分量が多いらしい。

弾力が失(う)せるのは水分が減るからという。

専門家によれば赤ちゃんの皮膚の細胞は8割が水だが、高齢の女性だと5割ほどになるのだという

▼齢(よわい)を重ねれば、外見の老化は仕方あるまい。

しかし精神の方はどうだろう。

評判になっている99歳、宇都宮市に住む柴田トヨさんの初詩集『くじけないで』(飛鳥新社)を読んでみた。

柔らかい言葉から滴(したた)るみずみずしさに、心が軽くなる

▼〈私ね 人から/やさしさを貰(もら)ったら/心に貯金をしておくの/さびしくなった時は/それを引き出して/

元気になる/あなたも 今から/積んでおきなさい/年金より/いいわよ〉。


「貯金」という詩の全文である


90歳を過ぎて詩を作り出し、産経新聞などに投稿してきた。

詩はおおらかでユーモアがあり泣かせもする。

聞けばお独り住まいという。

週末に息子さんが訪ねてくる。

訪問医やヘルパーさんにも支えられて、詩心をふくらませる日々だそうだ

▼白寿の詩人を敬いつつ、世間を見やれば、お年寄りの孤立が進む。

今年の高齢社会白書によれば、独り暮らしの3割以上は会話がないのが日常的になっているという。

孤独にさいなまれれば心は乾き、ひび割れてしまう

▼〈私ね 死にたいって/思ったことが/何度もあったの/でも 詩を作り始めて/多くの人に励まされ/今はもう/泣きごとは言わない〉。

柴田さんのみずみずしさの秘密は、たぶん「多くの人に励まされ」にある。

絆(きずな)や支え合いの大切さを、それは教えてくれている。



「くじけないでの色々な情報があり,身近なことでの人生の先輩からの示唆があります。









駅員や乗務員への暴力が止まらない







平成22年7月17日の天声人語よりの引用


ユーモア話をひとつ。

電車が毎日のように遅れるので、腹を立てた乗客が駅員さんにくってかかった。

「いつも遅れるのだったら時刻表なんか出しておくな」。

すると駅員、「時刻表がないと電車が遅れたかどうか分からないでしょう」

▼織田正吉(しょうきち)さんの『笑いのこころユーモアのセンス』(岩波書店)にあった。

道理に合わないことで相手をやりこめる詭弁(きべん)型のジョークだそうだ。

昔なら笑っておしまいだが、今は笑った後で心配になる。

駅員さん、殴られなかっただろうか

▼駅員や乗務員への暴力が止まらない。

去年の今ごろも同じ事を書いたが、減るどころか増えた。

全国の25鉄道会社で昨年度に計869件は過去最悪だ。

むろん笑話のようにやりこめたわけではない。

強く出られないのを承知の卑劣な暴力である

▼よく知られたハインリッヒの法則は、一つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、300の異常があると説く。

それに倣(なら)えば、一つの暴力沙汰(ざた)の背後には膨大な暴言や嫌がらせがあろう。

駅員さんたちは日々、心をこづき回されているのではないか

▼人が暮らすうえで、法律より広くモラルの守備範囲がある。

法律が城の内堀なら、モラルは外堀だろう。

外堀破りの不心得者が多くなれば、内堀を越える狼藉者(ろうぜきもの)も増えよう。

乗降の人波が駅員さんの目に「怖い地雷原」と映るようでは、日本は悲しい

▼弱い立場をはけ口にモンスターとやらが横行する「いちゃもん化社会」の一断面でもあろう。

いらつく世の中の頭を冷やす、大きな水枕はどこかにないか。




なにかと裏や暴力的行為が横行する世の中で驚くこともあるが

「くじけないでで素直に生きてゆきたいものです。









トマトは野菜か果物か、という古い論争がある






平成22年7月18日の天声人語よりの引用

 トマトは野菜か果物か、という古い論争がある。

往時の米国でのこと、輸入野菜には10%の関税がかかるのに、果物は非課税だった。

業者がトマトも果物だと訴えると、「デザートにならない」との理由で退けられたという。

近刊『極楽トマト』(講談社)で知った

▼サラダにしたり、小エビを詰めたり、なるほど、赤い実の役どころは前菜か付け合わせのようだ。

蒸し暑い夕には、うんと冷やしたのに塩をふるだけでいい。

皿の上の晴れ姿を思い描きながら、トマト2鉢をベランダで育ててきた

▼赤いミニとオレンジ色の中玉である。

黄色の花がしおれると、小さな青い実が残る。

それが膨らみ、梅雨の盛りに次々と色づいた。

休日の朝、起きがけにいくつか摘んだ。

これ以上のもぎたてはない

▼店頭の品より皮が厚いが、ほのかな甘みと酸味がうれしい。

ひいき目で合格点とし、苗を下さった人に写真を添えてお知らせした。

〈眠り足り朝のトマトの甘きこと〉浦部熾(おき)

▼鉢や土への出費を思えば高価な粒となったものの、ささやかな自給自足に学んだことは多い。

照れば葉が、降れば根が、吹けば実が気になる明け暮れ。

〈オロオロアルキ〉の宮沢賢治である。


農家には笑われようが、「食べる」の前にたくさんの「案じる」があると知った

▼かなりの地方で一気に梅雨が明けた。

農業では盛夏に備えて水をため込む時期ながら、頃合いというものを知らない雨のこと、深いつめ跡も残した。


ほどなく「食べるだけ」に戻る身ではあるが、天変地異のない、しっかりした夏を願う。




トマトに砂糖をかけ食べるのもおいしい

トマト


祇園祭



京都新聞の凡語の2010年07月18日よりの引用

太刀を握りしめた長刀鉾の稚児が勢いよく注連縄(しめなわ)を切り落とす。

ウオッーと歓声がわき起こる。

交差点に割り竹を敷いて山や鉾の進行方向を変える「辻回し」にも声援が飛ぶ

▼祇園祭の山鉾巡行に合わせたように梅雨が明けた。

入道雲の上から夏の日差しが巡行列や沿道を埋める観衆に降り注いだ。

気温は30度を超えたが、囃子方(はやしかた)も山鉾をひく人も生き生きしている。

晴天下の巡行はすがすがしい


▼1100年余の祇園祭の歴史は大火や戦災とのたたかいでもあった。

応仁の乱で中断する前は58基の山鉾があったという。

現在、巡行に参加しているのは32基。


3基の「休み山」がある。

その一つ、大船(おおふね)鉾が巡行復帰をめざしている

▼幕末の蛤御門(はまぐりごもん)の変で焼失した後、何度か復興機運が高まりながら実現しなかった。

しかし若手有志が11年前に囃子を復活させ、今年のくじ取り式にはオブザーバーながら33基目の代表として保存会の松居米三理事長が出席した

▼宵山の日、焼け残った大船鉾のご神面や懸装(けそう)品を展示する町内の「飾り席」は、勇姿の復活に向けた熱気に満ちていた。

同じ休み山の鷹(たか)山や布袋(ほてい)山でも、ご神体などが飾られた。

資金や人材面などの課題はあるが、再興への熱い思いは変わらない

▼少子高齢化が進み、どの山鉾も担い手確保には頭が痛い。

一方で新しいマンション住民らが仲間に加わる。

地域のきずな、人のつながりが祇園祭を支える。





伝統は多くの人たちの手で受け継がれていっている。但し平和な時代の続くことが必須である。








日本は総延長で世界有数の海岸線を持つ
どなたにも、肌や舌に残る海の思い出があろう

きょうで15回目という若い祝日今年は〈海にわびる日〉としたい







平成22年7月19日の天声人語よりの引用

映画監督の新藤兼人さん(98)が、故郷広島の海を随筆に書いている。

夏休みには近くの川でウナギを捕らえ、1時間歩いて海水浴場の食堂に卸す。

お昼は母が持たせた大きな握り飯と、ウナギの稼ぎを代えたカボチャの煮物だったという

▼〈陽(ひ)が落ちるまで海へ入ったり出たりして、夕方になって家路につく。

朝は駆けるような早足だったが、帰りはのろのろで倍も時間がかかった……わたしの少年時代は海だった〉。

大正の末だろうか

▼監督が「波打ち際から50メートルも透明だった。

海底はずうっと白砂で」と懐かしむ清浄はもう望めないが、日本は総延長で世界有数の海岸線を持つ。

米国をしのぎ、ロシアに迫る長さである。

どなたにも、肌や舌に残る海の思い出があろう


▼「人類の記憶」に、最悪の海洋汚染が刻まれようとしている。

米ルイジアナ州沖の原油流出事故だ。

応急措置で止めたというが、発生から3カ月、すでに東京ドームの容積の半分にあたる油が噴き出したとされる

▼州旗のペリカンが示すように、沿岸は水鳥の楽園であり、エビやカキの産地だった。

ジャンバラヤなどの郷土料理もよく知られる。

それぞれに宿るメキシコ湾の思い出やイメージが、褐色の異物と刺激臭にまみれたことだろう

▼きょうで15回目という若い祝日を、今年は〈海にわびる日〉としたい。

油田開発や海上輸送により、日本近海でも水と油の不幸な出合いが起こりうる。

快適な暮らしを保つには、細心の注意を払うしかない。

「少年時代は死の海だった」。そんな世代を生んではならない。



海の日

祝日には戦前の嫌な記憶を伴うものが衣を変え,祝祭日になっている例がある。

最悪の海洋汚染の原因はなんだったのだろうか。

2010年メキシコ湾原油流出事故








大森貝塚の発見で知られる米国の動物学者モースは
日本ほど子どもが親切に扱われる国はないと感嘆している






平成22年7月20日の天声人語よりの引用


幕末から明治にかけて日本に来た欧米人の多くが、この国を「子どもの楽園」と見たのはよく知られる。

たとえば英国の旅行家イザベラ・バードは「これほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない」と紀行文につづった

▼大森貝塚の発見で知られる米国の動物学者モースは、日本ほど子どもが親切に扱われる国はないと感嘆している。

わが子に愛情を注ぐだけでなく、世の中全体が子どもを大事にし、寛容でもあったよう


▼そんな昔とくらべて気の毒になる投書を東京の声欄で読んだ。

ある母親が8、3、1歳の3人を連れて新幹線に乗った。

東京駅で降りるとき、年配の女性から「うるさいのよ、あんたたち」と吐き捨てるように言われたそうだ

▼申し訳なかったと思いつつ、もう家族旅行はしたくないという気持ちが押し寄せてきたという。

別のお母さんも、「わが子が赤ちゃんだった頃、何がつらかったかと言えば、泣き声などが周りに迷惑をかけているというストレスだった」と書いていた

▼中には親子ともども、しつけの足りない場合もあろう。

親はほったらかし、子はしたい放題。

だが多くの親は周囲に気を使い、くたびれはてる。


不機嫌な視線を意識して、神経をすり減らす

▼詩人の高田敏子さんに幼い女の子の靴をうたった詩がある。

〈おとなの 疲れた靴ばかりのならぶ玄関に/小さな靴は おいてある/花を飾るより ずっと明るい〉と結ばれる。

夢ふくらむ靴をはいて、幼子(おさなご)も旅に出る夏休みである。

思い出に、大人の寛容を添えてあげたい。





戦後の若者達の行動には目を背けたいような出来事が多くなってきている。

欧米の考えが全て正しくて東洋的思考が全て悪いとは思わない。

良い所は伸ばし,悪い所は是正する必要がある







衆参で多数派がねじれた参院選の結果 勝たせず、負かさず
民意は政治を、ふさわしい緊張の中に漬け込んだようだ






平成22年7月21日の天声人語よりの引用



 梅雨が明けて、漬け込んだ梅を土用干しにした。

ご承知のように梅は塩加減が肝心だ。

多くすればかびる心配はないが、酸っぱいよりしょっぱくなる。

かびず腐らせず、すれすれに抑えて作るのが、言うなれば塩梅(あんばい)の妙である

▼字は異なるけれど、こちらも「絶妙の案配(あんばい)」だったと参院議長の江田五月氏が小紙で語っていた。

衆参で多数派がねじれた参院選の結果のことだ。

江田氏ばかりでなく、「国民の示した絶妙のバランス感覚」と評する声は多い。

意は政治を、ふさわしい緊張の中に漬け込んだようだ

▼民主党は負けたが、得票を分析すれば、負けていないともいえる。

逆もまたしかりで、自民党も勝ったとは喜べない。

勝たせず、負かさず。


そして与党から「数」という剣を取り上げた。

民意の塩加減である

▼これからの与党は「聞く耳」を持たねばならない。

難渋は見えている。

だが、重要な法案がろくな議論もなしに通るよりはいい、という人は少なくあるまい。

安易な員数合わせに走るなら、さらなる失望を招こう

▼自民も、意趣返しとばかり何でも反対では器が知れる。

そのあたりを国民は見ている。

「もっともよい復讐(ふくしゅう)の方法は自分まで同じような行為をしないことだ」。

古代ローマの哲人皇帝マルクス・アウレリウスの言は、今のこの党には金言だろう

▼昔の中国では、君主を助けてうまく政務をさばく者を「塩梅(えんばい)の臣」と呼んだそうだ。

主権在民の今、君主に代わる仕えどころは国民となろう。

かびず腐らず、ねじれの中から「塩梅の政治」は生まれないか。




重要な法案がろくな議論もせずに通すのではなくて,国民が納得するまでの議論が必要だとしてのことと考える。









北朝鮮による拉致事件の
工作員だった金賢姫元死刑囚が来日した







平成22年7月22日の天声人語よりの引用


「雁(かり)の使(つかい)」という言葉は万葉の昔から歌に詠まれている。

秋の空に飛来する雁は古来、懐かしい人の消息をもたらす使いだとされてきた。

だから手紙のことを「雁書(がんしょ)」とか「雁の文」とも呼び習わす

▼由来は中国の故事にさかのぼる。

漢の武将の蘇武は使者として匈奴(きょうど)に赴き囚(とら)われた。

匈奴側は蘇武は死んだと言い張ったが、漢の側は「天子の射止めた雁の脚に蘇武の手紙がゆわえられていた」と譲らず、ついに身柄を取り戻した。

話はどこか、北朝鮮による拉致事件に重なり合う

▼その国の工作員だった金賢姫元死刑囚が来日した。

超法規的な入国とものものしい警備は「雁の使」という雅語からは遠い。

だがベールの向こうからもたらされる、どんな消息も情報も、被害者の家族だけでなく日本にとって貴重である

▼世論が冷めたとは思わない。

だが核にミサイル、哨戒艦沈没と続く北の無法ぶりに、ときに拉致問題の影は薄くもなる。

この2年は政府間の動きも止まったままだ。


今回の来日を、夏の避暑地のいっときの話題で終わらせてはなるまい

▼金元死刑囚は昨夜、横田めぐみさんの両親と会った。

父親の滋さんは「世論を喚起するきっかけになれば」と話していた。

邪悪な国家犯罪を忘れないことが、家族を支え、政府を動かし、ひいては北への圧力にもなる

▼「雁書」の蘇武は19年の幽閉ののちに帰国した。

その歳月をとうに超えて、めぐみさんは今年で33年、金元死刑囚に日本語を教えた田口八重子さんは32年になる。

消息より被害者の身柄を、一日も早く迎えたい。





何故に今頃に金賢姫が来たのかがわからない。大層な国費を費やすだけのことがあるのかが疑問。

一連のアメリカの動きと連動してのこととかんぐりたい。

やはり日本はまだまだアメリカの半殖民地国家なのかと溜息がでてくる。








きょうは大暑
群馬では、館林市でおとといの気温が38.9度に上がった
きのうは岐阜県多治見市で39.4度を記録した







平成22年7月23日の天声人語よりの引用


〈念力のゆるめば死ぬる大暑かな〉の一句が俳人の村上鬼城(きじょう)にある。

誇張だろうが、ひょっとすると、体ひとつで暑さと闘った時代の実感だったかもしれない。

鬼城は明治の初めに群馬県に移り住み生涯を過ごした。

内陸だけに夏は暑い

▼その群馬では、館林市でおとといの気温が38.9度に上がった。

きのうは岐阜県多治見市で39.4度を記録した。

今年の全国最高という。

そのあたりを真っ赤に列島はうだる。

そしてきょうは大暑。

冷房という「逃げ場」はあるにせよ、これだけ暑いと鬼城の一句はぐっとリアルだ

▼大げさではなく熱中症で命が奪われている。

東京ではすでに400人以上が病院に運ばれたそうだ。

暑気あたりを総称して「霍乱(かくらん)」という。

鬼も霍乱にやられるのだから、子どもやお年寄りは注意がいる

▼人間の体は水の器だという。

それも穴のたくさん開いたバケツのようなものらしい。

大小の排泄(はいせつ)や呼吸、それに汗などで、成人は1日にざっと2リットルの水を失う。

ここは念力だのみではなく、定石通りのこまめな水分補給で身を守りたい

▼夏をつかさどる神を「炎帝」と呼ぶ。

ロシアでは暴君となって記録的な猛暑をもたらしている。

涼を求めた人か、6、7月で約1900人も水死したそうだ。

ひるがえって日本の炎帝である。

今年の太平洋高気圧は賢帝だろうか、それとも愚帝だろうか

▼酷暑でなく冷夏でもない、美しい夏を誰もが望んでいる。

〈炎帝の日本列島わしづかみ〉小山千代子。

賢帝なら、その指の力を、少し緩めてもらえるとありがたいのだが。





今年は猛暑続きでうんざりする。8月になっても続いている。








きょうはその芥川が命を絶った河童忌。





平成22年7月24日の天声人語よりの引用


芥川龍之介の小説『河童(かっぱ)』は霧の北アルプス・上高地から始まる。

語り手の「僕」は登山中に河童を見つける。

夢中になって追ううち、穴のような深い闇に落ち込む。

気を失って覚めると、そこは河童の国だった――

▼上高地を舞台にしたのは「河童橋」からの連想だろう。

80余年前の小説だが、話の中にも橋の名が出てくる。

いまでは上高地を訪れる人なら知らぬ人はない、シンボルのような存在だ。

梓川の清流に架かるその橋がつり橋になって、今年で100年になる

▼この橋から仰ぐ穂高連峰に心を奪われた人は多いだろう。

筆者もその一人だった。

登山に明け暮れて、訪れたのは20回を下らない。

晴れた日には、梓川は光と水がもつれ合うように、深く青く流れていた

▼現在の橋は5代目になるそうだ。

名前の由来には、「河童が住んでいそうな淵(ふち)があった」といった諸説がある。

みずからも訪れた龍之介の書きぶりも、深山幽谷の別天地だった往時をうかがわせる

▼時は流れ、いまや年間の来訪は百数十万人にのぼる。

乗り入れ規制などで一時より減ったそうだが、高地の繊細な自然を思えば、観光と環境の共存というテーマに終点はない。

アルピニストの世界だった冬にも観光客が急増しているという

▼龍之介は、人が自然を愛するわけを「自然は我我人間のように妬(ねた)んだり欺いたりしないからである」と言っていた。

平たく言えば、無心の安らぎということか。

きょうはその芥川が命を絶った河童忌。

人界の暑苦しさにうだりながら、梓の流れを瞼(まぶた)に呼びさましてみる。




芥川龍之介


上高地の河童橋には2-3度訪れている。当時も大変な賑わいで現在は

もっと開かれた所になっているではと想像する。







東のサンモリッツと西のツェルマット
二つのアルペンリゾートを結ぶ270キロの行程に、
たっぷり8時間をかける
「氷河特急」の脱線で多くの日本人が死傷した







平成22年7月25日の天声人語よりの引用


山好きの作家新田次郎(にった・じろう)が、憧(あこが)れの地を初めて訪ねたのもこの時期だった。

〈私は完全にスイスの風景に同化されたまま車窓によりかかっていた……突然、山と山の間に、

緑の牧草地の続くかぎりの終端に、くっきり浮かぶ白銀の山々が見えた。

はっとした。

アルプスだなと思った〉

▼半世紀ほど前の随筆である。

「恋人に会った時の動揺」と作家に書かせた風景を、居ながらにして楽しめる観光列車は中高年の憧れだ。

その旅の暗転である。

「氷河特急」の脱線で多くの日本人が死傷した

▼東のサンモリッツと西のツェルマット。

二つのアルペンリゾートを結ぶ270キロの行程に、たっぷり8時間をかける。

トンネルを抜けるたび、名峰や渓谷、ハイジがいそうな村など、違う「絵はがき」が車窓を流れるスイス自慢の走る展望台である

▼乗客の半分近くが日本人だった。


円高の夏、大人気の列車に三つのツアーが乗り合わせたのは偶然ではない。

亡くなった兵庫県の女性(64)は夫との旅という。

その時、夫婦の語らいは絶景か、お昼の郷土料理か。

断ち切られた至福の時を思う

▼高い鉄道技術を誇る、観光の国である。

パノラマ列車の惨事を誰が予想できよう。

夢にまで見た「恋人」との時間をひっくり返され、裏切られた思いの旅人もいるに違いない

▼童話作家のアンデルセンは、「旅は精神を若返らせる泉」の言葉を残した。

熟年の旅は気分一新だけでなく、人生を振り返る意味があろう。

自分あてのご褒美が何事もなく届くよう、今はこれから発(た)つ方の旅路の平穏を祈りたい。


氷河特急脱線事故


氷河特急







名古屋場所の千秋楽を、
日本相撲協会のネット中継で見た。








平成22年7月26日の天声人語よりの引用


名古屋場所の千秋楽を、日本相撲協会のネット中継で見た。

結びの一番は、白鵬と把瑠都が四つに組んでの力比べ。

実況も解説もないので、場内の興奮がびんびん伝わる。

白鵬が大きな上手投げに仕留めると、パソコンの薄い画面が震えた。

3場所続きの全勝優勝である

▼異例ずくめの場所だった。

野球賭博で琴光喜が解雇され、幕内の謹慎休場が6人。

魁皇らが故障で休んだため、幕内出場の力士は外国出身者が多数となった。

客の入り、懸賞とも寂しく、NHKの生中継も天皇賜杯もなかった

▼身から出た毒にのたうつ大相撲を、かろうじて一人横綱の偉業が救った。

これがなければ、大衆の興味は土俵を離れ、「国技」はいよいよ見限られていたはずだ。

抱けなかった賜杯二つ分に値する奮闘である

▼朝青龍の引退で迎えた春場所、解説の舞の海秀平さんが、白鵬の宿命を「一人寂しく勝ち続けるしかないでしょうね」と味な言葉で語っていた。

確かに名古屋の白鵬は、孤高ゆえの悲壮感をまとい、すごみがあった


▼好きに取らせて料理する横綱相撲ながら、細かい動きにも対応できる運動神経で、連勝は47に伸びた。

まだ25歳、当分はこの人の時代だろう。

越すべき名峰はあと二つ。まずは53の千代の富士、その先に69の双葉山がそびえる

▼親方衆と暴力団の関係が新たに報じられるなど、角界の前途は多難を思わせる。

強い白鵬が人気をつないでいるうちに、再生の足がかりをつかむほかなかろう。

相撲協会は、危機を一人で背負える大横綱の存在に感謝しないといけない。




勝負の結果が判っているテレビ中継では興味は半減する。それ以上に野球賭博 ヤクザ(暴力団)との関わりを聞くと

さらに相撲に対する興味が薄れてくるのは仕方がない。

信用を回復するには大変な努力が必要だ。








数学者の森毅(つよし)さんは京大の教授だったころ、授業で出席をとらなかった
まざまな逸話や、社会問題へのユニークな発言で
「最後の名物教授」と親しまれた森さんが亡くなった






平成22年7月27日の天声人語よりの引用


数学者の森毅(つよし)さんは京大の教授だったころ、授業で出席をとらなかった。

あるとき、出席をとってほしいと学生が言ってきた。

単位取得に出席を考慮してほしい、ということらしい。

そこでこう答えたそうだ

▼「よっしゃ、出席してないヤツは少々答案の出来が悪くても同情するけど、出席したくせに出来の悪いのは容赦なく落とすぞ」。

学生は黙ってしまったそうである。

自身、学生のころよくサボった。

父親には「学校を休んだ日は、学校へ行くより充実した一日を送れ」と言われていたそうだ

▼さまざまな逸話や、社会問題へのユニークな発言で「最後の名物教授」と親しまれた森さんが亡くなった。

退官後は自ら「老人フリーター」や「言論芸能人」と称していた。

自分にも他人にも、自由と放任を貫いた人だった

▼発言はしなやかで飄々(ひょうひょう)、ときに過激でもあった。

だが姿勢は一貫していた。

「新しいことを始めるには優等生だけではだめ。

突拍子もないことを言い出すのは、大抵はスカタンですわ」。


はみ出しがちな人への愛情が言葉の端々ににじんだ

▼『エエカゲンが面白い』『まあ、ええやないか』『ぼちぼちいこか』……。

肩の力を抜いた著書名の数々は、人生の達人からのエールでもあったろう。

「元気になれ、がんばれというメッセージが多すぎる」と案じてもいた

▼入学から就職まで最短で駆け抜ける今の大学に、さぞ苦言は多かったに違いない。

「予定通りの人生なんてそうあるもんやないよ」。享年82。

あの柔らかい関西弁がどこからか聞こえる気がする。




森さんは型破りなところがあり関西弁で教授に似合わないような思い切った評論をされていた。

こんな教授がいても,京大らしさは失わない。むしろ東大に比較して京大教授らしい方である。

斬新で的確な話をされていたように記憶する。








「ハーメルンの笛吹き男」はグリム童話で知られる中世ドイツの伝説である
かつて野山で遊び回っていた子どもの姿が、
笛に連れ去られたように消えてしまったと
現代の「笛」は電波だという








平成22年7月28日の天声人語よりの引用


「ハーメルンの笛吹き男」はグリム童話で知られる中世ドイツの伝説である。

不思議な男の吹く笛に、大勢の子らが吸い寄せられるようについて行き、そのまま消えてしまった。

実際に起きた話だという説もある

▼先日の小紙で、霊長類学者の河合雅雄さんが、この伝説をたとえに引いていた。

かつて野山で遊び回っていた子どもの姿が、笛に連れ去られたように消えてしまったと。

現代の「笛」は電波だという。


魔法の波が子どもを誘惑し、室内に閉じこめたと河合さんは憂える

▼昨今はテレビにゲームも加わっての二重奏だ。

放課後に遊ぶ姿さえあまりに少ない。

実際にどんどん体を動かさなくなっているそうだ。


ついには東京都教委が、小、中、高校生は毎日1万5千歩以上歩く目標を掲げることにした。

まずはモデル校に歩数計を配るという

▼メタボ対策さながらだが、状況は笑えない。

たとえば小学生の1日の歩数は、1979年の全国調査では平均2万7千歩だった。

それが07年には1万3千歩に半減していた。

足腰は体力の基本というから心配になる

▼10代の頃の体力は長寿に結びつく可能性が高いという研究結果もある。

子ども時代の遊びや運動は生命力に磨きをかける、ということだろう。

つまり生涯の財産になる

▼体力だけではない。

「遊びは人を強くする精神的沐浴(もくよく)」とドイツの教育者だったフレーベルは言った。

だが現代の「笛」たるゲームなどが、そうした遊びかどうかは疑問符がつく。

笛の音にいっぺん耳をふさいでみる。

そんな夏休みであってもいい。





今もそうだが,パソコンの前に座らない日は無い。辞書を引くことも少なくなりパソコンで調べる。

パソコンに道びかれているような毎日である。

此れでよいのか,それとも時代の流れかインタ-ネットで導かれている所がある。








亡くなった井上ひさしさんはかつて、
「政治とは、端的に言えば、
『国民から集めた税金や国有財産をどう使うか』と
いうこと」だと言っていた。








平成22年7月29日の天声人語よりの引用


亡くなった井上ひさしさんはかつて、「政治とは、端的に言えば、『国民から集めた税金や国有財産をどう使うか』ということ」だと言っていた。

政治についての古今東西の名著を万巻積み上げたところで、この一行にはかなうまい、と歯切れがいい

▼ことほどさように、予算は政治そのものだ。

裏を返せば、政権にとっては大仕事である。

どこに手厚く、何を我慢し、何を捨ててどんな将来をめざすのか。

「先立つもの」は政策を行う裏付けであり、その配分は国のかたちの具象化でもある

▼その来年度予算の概算要求基準が決まり、菅政権の大仕事がスタートした。

去年の鳩山政権は自民政権を継ぐ形の、いわばリリーフだった。

言い訳もできたが、今年は晴れて先発である。

「政治主導」に嘘(うそ)はないか。

真価が問われることになる

▼とはいえ大赤字に変わりはない。

孫子(まごこ)の代を質草にした莫大(ばくだい)な借り入れは、いまや習い性になった感がある。


「ギリシャ化」を憂えつつバラマキ体質を残したままの政権に、どこか不安な向きも少なくあるまい

▼国の当初予算が1兆円を超えたのは1956(昭和31)年度だった。

59年度には、当時の大蔵省が語呂合わせで「1兆よい国(1兆4192億円)」と浮かれた。

右肩上がりに2度目の「坂の上の雲」を追い始めた、古き良き昭和である

▼官僚が元気だった時代の活力を、政治は自ら率いて再生できるのか

目玉の一つという「元気な日本復活特別枠」は功を奏するだろうか。

あれやこれやと案じつつの、しばしはお手並み拝見となる。



政治家とは判りやすく解説するならば,税金を国民から徴収し如何に配分するのが仕事であることは間違いない。








先の参院選で当選した新議員は7月の在任が6日しかない。
なのに満額の230万円が支払われる







平成22年7月30日の天声人語よりの引用


 中国の明代の『菜根譚(さいこんたん)』は語録風の随筆で、本国よりむしろ日本でよく読まれた。

その中に「衣冠(いかん)の盗(とう)」という言葉が出てくる。

衣冠とは官職につく者をさしていて、平たく言えば「給料泥棒」の意味である

▼難関で鳴る科挙に晴れて受かり、あとは役得にどっぷり漬かる者が多かったのかもしれない。

失礼ながら、この話を、国会議員の「月割り歳費」の問題で思い出した。

先の参院選で当選した新議員は7月の在任が6日しかない。

なのに満額の230万円が支払われる


▼お手盛りの大盤振る舞いと見られても仕方あるまい。

去年の衆院選では8月30日に当選した議員が、たった2日で全額もらった。

批判がわいたが、足元を清める動きは鈍く、政権交代の熱にかき消えた。

そして今回、またぞろである


▼浮世離れした厚遇は新議員を勘違いさせかねない。

だが結局、この国会では「日割り」への法改正とはいかず、自主返納という形を整えるそうだ。

かえって気の毒ではないか。

同期当選の仲間をうかがいつつ、踏み絵を踏まされるような気分だろう

▼仙谷官房長官がこのあいだ「引き下げデモクラシー」なる言葉を使っていた。

恵まれた立場の人を引きずり下ろして留飲を下げる、低級な民主主義のことだ。


むやみなバッシングは不毛だが、この問題への批判はしごく真っ当な庶民感覚だろう

▼『菜根譚』は、給料泥棒たる「衣冠の盗」を「民衆を思い愛さない者」と定義している。

きょう初登院する新人は55人。

その本来の意味で、ドロボーとは無縁であってほしいと願う。





議員が法律を作るのだが 自己には甘いことは予想される。

真の政治改革にはまず自己から律して欲しい。









7月の言葉から






平成22年7月31日の天声人語よりの引用


おとといの民主党両院議員総会の有り様に、この党を見限った人もおられよう。

政治の暗雲低い中、お天道様だけが無遠慮なほど元気だ。

列島が陽(ひ)に灼(や)かれ、雨に叩(たた)かれた7月の言葉から

▼甲子園をめざす球音が各地でこだました。

かつて栄光を刻んだ野球評論家の桑田真澄さん(42)が球児らに、

「ミスをなくそうとムダな努力をするよりも、ミスから学ぶことのできる選手の方が成長が早い」。

皆でミスをカバーし合うのも喜びであり充実だ。

政治屋サンにはそれもないが

▼開発や発展を問い続けるフランスの経済哲学者セルジュ・ラトゥーシュさん(70)が来日した。

「私が成長に反対するのは、いくら経済が成長しても人々を幸せにしないからだ。

成長のための成長が目的化され、無駄な消費が強いられている」。


つましくも幸福な社会を目指すべきだ、と

▼古い民家の再生や保存が広まっている。

「古民家鑑定士」という資格をつくった松山市の井上幸一さん(48)は「木は70年かけて育つ。

家が30年でまるごとゴミになったのでは森林は減る一方だ」


▼廃校もしかり。

北海道の雨煙別(うえんべつ)小は宿泊型施設によみがえった。

自然体験をアレンジする高橋慎(まこと)さん(60)は「今の子どもたちは情報の感じ方が目と耳だけになっている。

手でさわる、においをかぐ、味わう。

五感全部をよみがえらせると生き生きした子どもが戻ってくる」


▼朝日歌壇に横浜の小学1年、高橋理沙子さんの〈糸の先にするめをつけてつったんだ大きいザリガニだこれどうしよう〉。

せめて子らの夏よ、ふくらめ。







敗戦後占領下のマッカ-サ-と天皇





敗戦後日本はアメリカの統治下に有った事は誰も否定する人はいないだろうと思うし,昭和20年8月15日に敗戦

日本はGHQの占領統治下に有った。だが連合国軍では戦艦ミズリ-号での降伏文書を交わした日を戦勝記念日としている。

ただ日本だけが8月15日を終戦記念日としている。GHQによる日本占領は連合国軍最高司令官最高司令部を読んでいると

昭和27年(1952年)4月28日本国との平和条約が発効、日本の主権回復。GHQ/SCAPの占領が終わっていることになっている。

最高司令官はダグラスマッカーサーであった。天皇より偉い立場に有った人であった。

朝鮮戦争1950年6月25日 - 1953年7月27日休戦)は、成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、

朝鮮半島
主権を巡って、北朝鮮が軍事境界線を越えて侵攻したことによって起きている。だから日本は朝鮮戦争中に主権を回復している

ことになっている。当時子供の頃進駐軍が多くウロウロしていたことを記憶する。日本の女性と親しげに街道をかっぽしていた。

女性はパンパンと呼んでいた。それが白昼でも外人兵士と肩を組んで闊歩していた。それが当時の普通の風景だった。

現在は売春防止法で見なくなっている。子供の頃住んでいた場所が16師団司令部にその付属する部隊が点在していて

そこに進駐軍が住居していて,日常茶飯事ように火事がよく発生して兵舎が燃えるのを見物しに行ったことがある。

木造兵舎だから良く燃えていた。進駐軍も花火を見るごとくに一緒にけんぶつしていたのを記憶している

日本の悪い癖なのか占領軍と言わずに進駐軍と呼ばれていた。敗戦も終戦で敗戦記念日と言わずに終戦記念日になっている。

戦時中の大本営発表は敗退と言わなく,転戦と発表されていた。戦時中は徹底的な統制の元に天皇の神格が幼い頃から教育されていたので

神州不滅と信じていた。天皇は人間でなく神さんだから何を食べておられるのかが,子供心に大変不思議だった。

天皇は神だと信じ込ませられていた天皇が人間宣言されて驚いた。神風も吹かず,神風特攻隊の若い青年達が戦死していった>

驚くことはさらにマッカ-サ-と天皇とが一緒に撮った写真である。

天皇が直立不動で,マッカ-サ-が後ろのポケットに手を突っ込んでいる姿を見るとマッカ-サ-が偉く,天皇は明らかに神でないことを知った。

今考えると何故に少なくとも一年程早く降伏の決断ができなかったのか。当時の昭和天皇は敗戦時の年齢が44歳である。

戦時中の天皇の統帥権は絶対的なものだったと思うのだが。上官の命令はかしこくも天皇陛下の御命令であるとされていた時代である。


      サイパン 沖縄戦に生き延びた人たちの証言(動画)


       アメリカから見た沖縄戦(動画) 天皇が沖縄戦でもって日本が勝利にいたると考えられたのかが不思議。


以下インタ-ネットよりの引用

マッカーサー回想記 (訳文)  

(本文は、1964年に出版された、Douglus MacArthur著 Reminiscencesの中で昭和天皇との最初の会見の様子を記した、P288を和訳したものである。

訳文は、昭和39年1月25日付け、朝日新聞より引用している。傍線は、本稿筆者が付した。)

 天皇は落ち着きがなく、それまでの幾月かの緊張を、はっきり顔に表していた。

天皇の通訳官以外は、全部退席させた後、私達は、長い迎賓室の端にある暖炉の前に座った。

 私が、米国製のタバコを差し出すと、天皇は礼を言って受け取られた。そのタバコの火をつけて差し上げたとき、私は、天皇の手が震えているのに気がついた。

私は、できるだけ天皇のご気分を楽にすることにつとめたが、天皇の感じている屈辱の苦しみが、いかに深いものであるかが、私には、よくわかっていた。

 私は、天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴え始めるのではないか、という不安を感じた。

連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろと言う声がかなり強くあがっていた。

現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、天皇が筆頭に記されていたのだ。

私は、そのような不公正な行動が、いかに悲劇的な結果を招くことになるかが、よく分っていたので、そう言った動きには強力に抵抗した。

 ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、私は、もしそんな事をすれば、少なくとも百万の将兵が必要になると警告した。

天皇が戦争犯罪者として起訴され、おそらく絞首刑に処せられる事にでもなれば、日本に軍政をしかねばならなくなり、ゲリラ戦が始まる事は、

まず間違いないと私は見ていた。結局天皇の名は、リストからはずされたのだが、こういったいきさつを、天皇は少しも知っていなかったのである。

(昭和天皇のお言葉)

 「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する、全責任を負うものとして、

私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした。」

 私は、大きい感動にゆすぶられた。死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする。

この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても、日本の最上の紳士である事を感じ取ったのである。

(付記)

 マッカーサー元帥は、側近のフェラーズ代将に、「私は天皇にキスしてやりたいほどだった。あんな誠実な人間をかつて見たことがない」と語ったと言う。

(当時外務大臣であった重光葵氏が、1956年9月2日、ニューヨークでマッカーサー元帥を尋ねたときの談話による。)

 他にも、「一言も助けてくれと言わない天皇に、マッカーサーも驚いた。彼の人間常識では計算されない奥深いものを感じたのだ」〈中山正男氏、日本秘録98項〉

「この第一回会見が済んでから、元帥に会ったところ、陛下ほど自然そのままの純真な、善良な方を見た事がない。

実に立派なお人柄である」と言って陛下との会見を非常に喜んでいた」〈吉田茂、回想十年〉などの記録がある。 



過去の誤った歴史を参考にして愚かな戦争を犯さないように正しい政治を行っていって欲しいものです。

戦争絶対に良いことは無い。良いのは武器商人(軍需産業)くらいである。




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