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8月について



今年の夏は特に暑い毎日が続いた。新聞やテレビ報道でも同じように異常気象を報じている。

本当に暑い夏だった。蝉が鳴く声でもって暑さを感ずる以上に,本当に暑い夏の日が続いた。

熱中症で倒れ救急車で搬送される人たちのことが連日のように報道されている。

広島市への原爆 それから 長崎市への原爆記念の日も確実に毎年やってくる。このことは決して忘れてはならない。

今年は国連事務総長現在の藩基文氏 が初めて広島原爆記念日に出席しているか゛もう一つ盛り上がりが感じられなかった。

最初はアメリカ大統領のオバマ氏の出席が取りざたされていてたが,取止めになっている。

変わりにルース駐日米国大使が、広島平和記念式典に出席し第2次世界大戦のすべての犠牲者に対し敬意を表している。

ルース大使の広島訪問は今回が2回目で、米国大使が8月6日に広島を訪問するのは初めてのことである。

ルース大使は「未来の世代のために、私たちは核兵器のない世界の実現を目指し、今後も協力していかなければならない」と語っている。

第2次世界大戦終結65周年にあたり、あのような戦いを再び繰り返さないという決意でもあった。

米国と日本は、先の戦争の悲劇から前進し、最も緊密な友好国・同盟国となり

核兵器のない世界というオバマ大統領の構想を推進する目標に向かうことだ。

8月16日恒例のお盆の送り火である大文字焼きが今年も京都の三大祭りの他の行事の一つとして行われた。

日本の各地方でも大文字焼きが行われているようである。



京都五山送り火(動画)



送り火が終わると夏の暑さも衰えて来るのが例年だが、今年の夏は一向に暑さが衰える気配がなかった。

次に地蔵盆がやってくるのだが,この住んでいる地域では夏祭りが変わりにある。

本格的な夏は本当だと終わりになるだが一向暑さは変わりなかった。

民主党内での首相を選ぶ代表選挙が始まり、暑い政治゜の夏がやってくる。

アフガンでは相変わらずに一向にテロの衰える現象が見られず

だがイラクからのアメリカ軍の撤退が始まりだしている。

あのイラク戦争は何のために行われたかの大きな疑問が残されている。

そして沢山な犠牲者がイラク人や 若いアメリカ兵たちに悲しみと苦しみを与えただけのようにしか思えない。

軍に命令を下し戦争を始めたブッシュ、自分に何の責任も無いかのように悠々自適に生活しているのだろうか、

全く報道はされてこない。



絶対正義の崩壊-イラク戦争(動画)









久しぶりに蚊やりの豚を目にした。
夜通し焚(た)いた緑の渦巻きは、
この季節を五感で受け止めていた幼き日を連れてくる





平成22年8月1日の天声人語よりの引用


ヒグラシの輪唱が降り注ぐ温泉宿で、久しぶりに蚊やりの豚を目にした。

かわいい陶器の、蚊取り線香入れである。

冷房の部屋では無用の置物だったが、懐かしい香りを一つ思い出した

▼夏の朝の匂(にお)いといえば、夜具に染みた蚊やりの煙であった。

昭和の半ば、空調も何もない家。


夜通し焚(た)いた緑の渦巻きは、この季節を五感で受け止めていた幼き日を連れてくる。

淡い面影とともに。

〈ちちははと居し日のやうに蚊遣(かやり)焚(た)く〉谷中隆子

▼随筆家の故室生朝子(むろう・あさこ)さんが、実家の夏を記している。

東京・馬込の家は蚊が多く、父で作家の犀星(さいせい)に客がある時は、2時間前から蚊取り線香を焚いたという。

香炉状の器に入れて、戸障子を開け放った家の風上に置く

▼〈うす蒼(あお)い煙が立ちゆらぎ、やがて小さい風に乗って、匂いは部屋の中を通り廊下に出て行く……

打水(うちみず)した敷石や靴ぬぎ石と、ほのかな香りの残る風通しのよい蚊のいない部屋が、夏の客に対するもてなしのひとつであった〉

▼そうした和のもてなしも昔話になった。

サッシとエアコンで守りを固め、外気を隔てた部屋で客人を待つのが今風だ。

蚊や蒸し暑さと一緒に、季節感も追いやられる。

もっとも、昨今は蚊の方も時候にお構いなしとみえ、暖かい地下街などでは冬に刺される人がいる

▼〈母恋へば母の風吹く蚊遣香(かやりこう)〉角川春樹。

蚊よけに限るまい。

立ち上る煙や炎のひと揺れに、生き別れ、あるいは風に姿を変えた人を思う8月である。

しのぎ方は変われども、天から客を迎える優しい習わしが、日本の夏をつなぎ留める。





蚊がいないのか蚊帳とかかやりびは必要としない夏の生活である。

農薬でもって蚊は発生しないでいるのか。

蚊帳やかやりびが懐かしく思い出される。









フィンランド沖の深さ60メートルに沈む難破船に、
まだ飲める約30本が眠っていたという。
コルク栓などから、老舗(しにせ)ヴーヴ・クリコの創業期、
1780年代の品らしい








平成22年8月2日の天声人語よりの引用



休日でも、昼酒には多少の遠慮が伴うのが日本である。

居もしない「世間様」が気になるのは、日の高いうちの享楽を慎む農耕民族の血だろうか。

華やいだ酒はなおさらだ

▼赴任地のパリで住居を探した際、高層アパートを下見した。

平日の昼下がり、最上階のその部屋では若い男女が食事中だった。

大家の息子夫婦で、仮住まいだという。

半分ほど空いたシャンパンの瓶が、緑の影を揺らしていた。

こんな生活もあるんだと驚いたものだ

▼リッチな食卓がよみがえったのは、〈最古のシャンパン発見か〉という外電ゆえである。

フィンランド沖の深さ60メートルに沈む難破船に、まだ飲める約30本が眠っていたという。

コルク栓などから、老舗(しにせ)ヴーヴ・クリコの創業期、1780年代の品らしい

▼ルイ16世がロシア王室に送った荷、との説もある。


本当なら大革命の直前、ブルボン朝末期の味である。

試飲した発見者らによると、時を止めた享楽は甘く酸っぱく、気泡もあった。

期せずして冷暗に保たれた幸運だろうか

鑑定中ながら1本500万円とも伝えられる。

もはや飲料というより生き証人としての価値だろう。

近現代史の明暗を海底で見届けたボトルたちである。

栓を抜く時のためらいたるや、どんな昼酒もかなうまい

▼あるシャンパン生産者の言葉を思い出す。

「祝いの酒なので、戦争や災害は大敵。

一本開けようかとなる世相が大切です」。

開け時があるのなら、「開けられ時」もあろう。

まどろむ金色の液体にはまず、2010年のこの空気に触れたいか、聞いてみたい。






海中の中に一本500万円のシャンパンがあるとすればビジネスとして海中探査して難破船から引き上げようとする

人たちか出てくるのではないかと考えたりする。

海は広くて潜水艦のようなものが必要かもしない。









福竜丸の遭遇した水爆は広島型原爆の千倍もあり、
島を三つ吹き飛ばした。
その閃光(せんこう)をはじめ、
冷戦下に米国が67回も核実験を繰り返したのが
太平洋のビキニ環礁一帯だった
そのビキニ環礁がユネスコの世界遺産に登録されるという










平成22年8月3日の天声人語よりの引用


日本に住む米国人の詩人アーサー・ビナードさんに『ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社)という絵本がある。

米国の画家、故ベン・シャーンが死の灰を浴びた第五福竜丸を描いた連作に、日本語で詩をつけた

▼犠牲になった久保山愛吉さんの墓に参りつつ、詩人は言葉を刻む。

〈「久保山さんのことを わすれない」と/ひとびとは いった。

/けれど わすれるのを じっと/まっている ひとたちもいる〉。

忘却を拒み、風化に抗(あらが)う、固い意志に貫かれた一冊である

▼福竜丸の遭遇した水爆は広島型原爆の千倍もあり

島を三つ吹き飛ばした。

その閃光(せんこう)をはじめ、冷戦下に米国が67回も核実験を繰り返したのが

太平洋のビキニ環礁一帯だった。

海底に残る巨大なクレーターは、人類の愚行の刻印である

▼そのビキニ環礁がユネスコの世界遺産に登録されるという。

紺碧(こんぺき)の海に抱かれた珊瑚礁(さんごしょう)は本来なら美しい自然遺産であろう。

しかし文化遺産として登録される。

「負の遺産」として狂気の時代を記憶し、伝える役を担うことになる

▼遺産とはいえ、話は過去のものではない。

現地の島々には病に苦しむヒバクシャも多い。

何より人類は核兵器を葬ってはいない。

国際世論が細れば、「忘れるのを待っている者たち」がまたぞろ増長しかねない

▼〈ペンキはがれ朽木のごとき船体なりされど眠れぬ第五福竜丸〉と先の朝日歌壇にあった。

ビキニ環礁とて過去を忘れて眠れまい。

広島・長崎から65年。福竜丸から56年。核廃絶の意思を新たにする夏でありたい。






今頃にビキニ環礁実験で核汚染が日本 アメリカ国内上空にも覆っていた記録が発表されている。

今まで公になっていない記録が朝日新聞のトップページ記事で報道されている。

人類が滅んでしまってから、このような形の報道で判るようでは遅すぎる









かの個人情報保護法などが、人と人のつながりを断ち切る方向にアクセルを踏んだ
絆(きずな)は細り、人は役所のコンピューターの中で事務的に処理されがちだ
孤立、孤老、孤食……近ごろは「孤育(こそだ)て」なる造語もあるそうだ









平成22年8月4日の天声人語よりの引用


「元の木阿弥(もくあみ)」の言葉の由来はこうらしい。

戦国の武将筒井順昭が病死したとき、子の順慶はまだ幼く、天下に死を隠す必要があった。

そこで声の似ている木阿弥という男を替え玉として寝かせたそうだ

▼順慶が成人すると喪を公表した。

木阿弥は用済みになり、元の身分に戻ったという。

この故事を、東京都の男性最高齢とされていた111歳が、実は32年前に死亡していたという奇談に思い出した。

“生存”の根拠だった区役所の住民票は、さしずめ現代の木阿弥ということになろう

▼自宅からは本人とおぼしきミイラ化した遺体が見つかった。

家族の行動も不可解だが、年金の給付ばかりか「元気高齢者記念品」まで贈っていた足立区は寝覚めが悪かろう。

そして事は続くと言うべきか、面妖な事態がもう一つ明るみに出た

▼今度は杉並区で、都内最高齢とされていた113歳の女性の所在が分からない。

住民票の地番には長女が長く一人で住み、本人には20年以上会っていないという。

生死も分からないといい、人の砂漠のどこに消えたか案じられている

▼人の世を「砂漠」と呼んで久しいが、近年とみに乾燥が進みつつあるようだ。

もともと地域の存在は希薄になっていた。

そこへ、かの個人情報保護法などが、人と人のつながりを断ち切る方向にアクセルを踏んだ。

絆(きずな)は細り、人は役所のコンピューターの中で事務的に処理されがちだ

▼孤立、孤老、孤食……近ごろは「孤育(こそだ)て」なる造語もあるそうだ。

「孤」の字がのさばり、はびこるのを許さぬ意思が、社会にほしい。





社会が欧米化に染まってからはが著しく浸透してきた。弧の社会は寂しいものである。

家族の絆もズタズタになって来た思いが強い。

150歳の以上の人達が多く存在していることが報道されている。










風物詩で、蝉しぐれを聞かないと夏の気分がしないという向きも多かろう








平成22年8月5日の天声人語よりの引用


緑陰の濃い近所の公園で、蝉(せみ)たちの合唱がかまびすしい。

鳴くから暑いのか、暑いから鳴くのか。

入道雲が輝いて、その音量はいよいよ上がる。

まさに風物詩で、蝉しぐれを聞かないと夏の気分がしないという向きも多かろう

▼逆の人もおられよう。

やかましいことを例えて蛙鳴蝉噪(あめいせんそう)という。

蝉も蛙(かえる)も、その合唱を妙音と愛(め)でるか、騒音と嫌うかは人によって分かれるようだ。

ギリシャ生まれの小泉八雲は「音楽的に鳴くのもいるが、大多数は驚くほど騒々しい」と言いつつ、種類ごとに声を論評している

▼クマゼミは騒音に属するらしい。

ミシンを力いっぱい踏み回す音に似ていると文豪の耳は聞く。

ヒグラシはお気に入りのようだ。


あの「カナカナ」を、清澄で甘美とも思える音楽性がある、とほめている

▼一番の歌い手にはツクツクボウシをあげた。

あの抑揚のある声は、様々に人の言葉を連想させもする。

やはり明治の文豪幸田露伴に〈空耳歟(か)うつくし湖(うみ)と蝉の鳴く〉の句があって、言われてみればそうも聞こえる。

自在な連想に脱帽である

▼声を限りに鳴く命はせいぜい2週間という。

ご存じのようにメスは鳴かない。

作家の北杜夫さんが随筆で、〈蝉の生涯は幸いなるかな/彼らは声なき妻を有すればなり〉という西洋の詩句をユーモラスに紹介していた。

賛同の一票を投じる方もおられようか

▼〈ふたたびは帰らじ蝉の穴深し〉阿波野青畝。

その鳴きように夏を感じ、抜け殻を「空蝉(うつせみ)」と呼んではかなんだ日本人とは違い、西洋の一句はやはり、なかなかに人間くさい。




せみ時雨の鳴き声が吹き飛んでしまうような猛暑続きが続いているような今年の酷暑の夏である








きょう広島原爆の日である






平成22年8月6日の天声人語よりの引用


手元にある石内都さんの写真集『ひろしま』(集英社)に忘れがたい1枚がある。

即死だったのだろう、遺骨も見つからなかった女生徒の上着だ。

ぼろぼろになって橋にひっかかっていたそうだ。

縫いつけた名前が、生きた証しのようにはっきり読み取れる

▼母親が和服を仕立て直した服だという。

13歳だったから存命なら78歳になる。

人生の盛夏から実りの秋を過ぎ、静かな小春の日々だろうか。

断ち切られた幾多の人生を弔い、祈る、きょう広島原爆の日である

▼悲願の核廃絶には新しい風が吹きつつある。

米国のオバマ大統領は去年、核を使用した自国の道義的責任を語り、「核なき世界」を訴えた。

それを機に、涸(か)れていた核軍縮の泉がわき出し、川となって流れ始めた

▼さらなる水流となるのだろうか、広島での平和記念式にルース駐日米大使が出席する。

65年をへて初めての大使出席になる。

とはいえ米国では今なお、原爆投下を正当化する考えが常識だ。

政権にとって楽な決断ではなかっただろう

▼大使の出席には米国内の反応を見る「瀬踏み」の意味もあろう。

大統領の被爆地訪問をぜひ実現させてもらいたい。

スウェーデンの故パルメ首相を思い出す。

かつて広島を訪ね、核戦争は抽象的な概念になりがちだが、初めてそれが残虐な現実だと肌で知った」と衝撃を語っていた

▼13歳の体からはがれて爆風にちぎれた服に、おとしめられた人間の姿に、何を思うか聡明(そうめい)な大統領に聞いてみたい。

正当化しえない「絶対悪」だという認識を、核大国に伝えるためにも。


広島原爆投下アニメ(動画)



広島原子爆弾(動画)



核兵器産業(動画)


人間的に狂気じみた核兵器開発競争・保有も兵器産業の面から眺めると人間の現実的で理知的・功利的な側面を伺い知ることが出来る。



広島の空(動画)









この夏も、列島各地で花火大会が盛りである
暦の上ではきょうが立秋。








平成22年8月7日の天声人語よりの引用


花火は消えていくときがいいと小欄の先輩筆者だった深代惇郎が書いていた。

ひょろひょろと上がってパッと散る。

青や赤が溶けるように流れる。

見る間に消えて、ふたたび闇だけを天空に残す

▼瞬時に消えながら眼底と胸底に余情をひく。

「どんなに見事な花火も消え方が悪ければおしまいだ」とこだわりを見せていた。

東京の下町育ち。

江戸情緒の風を受けた花火の見巧者(みごうしゃ)だったかもしれない。

そしてこの夏も、列島各地で花火大会が盛りである

▼去年はいま一つだった。不況のあおりで中止や規模縮小が相次いだ。

それらが今年、続々と復活している。


静岡県袋井市や千葉県の手賀沼などではきょう、復活の大輪が夜空に咲く。

住民の募金でよみがえった大会も多いそうだ。

やはり日本の夏とは切っても切れない

▼〈暗く暑く大群衆と花火待つ〉西東三鬼。とはいっても、やみくもに一番前に出るのは野暮(やぼ)らしい。

通によれば、パッと開いてから1、2秒、音が遅れて聞こえるのが粋だという。

目と耳のずれ加減が、こだわりどころなのだそうだ

▼見えない花火も、しみじみと趣が深い

。どこからか音だけが聞こえてくる遠花火(とおはなび)である。


窓をあけて、夜気をふるわせる遠雷のような響きを聞く。

枝豆にビールでもあればなおいい。

こんなときは音にあわせて、心の中で大輪が咲く

▼花火見物は、暑さにゆるむ心身に、目と耳を通して活を入れる効用もあるらしい。

暦の上ではきょうが立秋。

〈そよりともせいで秋立つことかいの〉鬼貫。

涼と活を求めて、こよい足を運ぶもよし。




横浜開港花火大会(動画)


琵琶湖花火大会(動画)


宇治川花火大会(動画)


隅田川花火大会(動画)








広島―甲子園―長崎。
二つの原爆忌に挟まれて、白球の宴が幕を開けた。








平成22年8月8日の天声人語よりの引用


広島―甲子園―長崎。

二つの原爆忌に挟まれて、白球の宴が幕を開けた。

高校野球は日本の夏を刻み次へと回す暦の歯車に思える。

開会式には入道雲、決勝戦には刷毛(はけ)ではいたような空がいい。

〈八月の雲みな白し甲子園〉城山白河

▼いつもは六甲おろしがうなるスタンドも、しばらくは聖地の風情だ。

それぞれに声援を送るアルプス席を除けば、いわば全員が双方の応援団。

うちわ片手に、渾身(こんしん)の一投一打を待ち望む。

ヤジは消え、拍手は温かい

▼開幕試合に、初出場の松本工が登場した。

大差はつけられたけれど、後半は悪くなかった。

初安打に初得点、守りの好プレーもたくさん。

夢から現実に戻る最初のチームとなったが、すべての経験が明日への宝物となろう。

どの強豪校も「初」から始まった

▼高野連の奥島孝康会長が開会式後のインタビューで、知性と野性のバランスに触れていた。

知に偏れば、えてして力強さを損なう。

草いきれ、土のにおいまでがルールであるかのようなこのスポーツが、育ちの均衡に悪いはずはない。

野球とはよく言ったものだ

▼4年前の優勝校、早稲田実のエースだった斎藤佑樹さん(早大)は、甲子園を実家に例える。

「球場に入った瞬間、天然芝だと思うんですけど、青臭いような独特のにおいがして、ああ、帰ってきたなあって」(週刊朝日「甲子園増刊号」)

▼夏に帰るべきところ。

そんな意味で、8月の甲子園はすべての野球好きの実家なのかもしれない。

「ただいま」と戸を開け、しばし懐かしいそのにおいに甘えるとするか。





甲子園の夏の大会の面白さはプロ野球のような華麗な試合は見られないが

熱心に全力を注いでのプレ−には共感する所が多い。

今年は沖縄の興南高校が春に続いて夏にも優勝したことは嬉しい。








有名無名に関係なく、病は無遠慮に押しかける
サザンオールスターズの桑田佳祐さん(54)が食道がんを手術した









平成22年8月10日の天声人語よりの引用


50を過ぎた頃から、わが身ばかりか同世代の健康が気になり始めた。

個人差はあろうが、この年になると不調や心配の一つ二つは抱えているものだ。

有名無名に関係なく、病は無遠慮に押しかける

▼サザンオールスターズの桑田佳祐さん(54)が食道がんを手術した。


幸い早めの発見で、術後も良好と聞く。

一人の体でないのが大物のつらさ。

新作アルバムの発売は延期され、全国ツアーは中止となった。

ここは気長に、根治と再起を待ちたい

▼ロックンロールにバラード、おちゃらけた歌まで、何を聴いてもつくづく天才だと思う。

自在の楽曲と達者なステージに、どれだけ励まされたことだろう。

サザン世代がかかわる雑誌やレコード店が、激励の企画を競うのもわかる

▼デビューから32年という。

桑田さんは2年前、アエラ誌上で「気づくと『人生、残り何試合かなあ』って考えるような癖はつきましたしね」と語っていた。

まだまだ。

いつまでもご自身の詞の通り、〈悪さしながら男なら/粋で優しい馬鹿でいろ〉の心意気でお願いしたい

▼桑田さんの件で、内視鏡検査を思い立った人もいよう。

それで命拾いするケースもあるはずだ。

そして完全復帰への歩みが、さらに多くを勇気づける。

著名人の闘病は、ご本人や周囲の苦楽にとどまらない

▼己の持ち物ながら、意のままにならない内臓たちである。

検査の数値でご機嫌をうかがい、たまに上から下から様子をのぞくしかない。

知られた人の闘いに元気をもらい、せいぜい自分をいたわりたい。

一試合でも多くやるために。





食道癌は見逃すことが多くて早期に見つけることは難しい

それに進行がんの手術は困難が伴う。

早期に発見できたことは幸いである。 アルコールとタバコが悪い。









韓国併合から100年にあたり、菅首相が談話を出した








平成22年8月11日の天声人語よりの引用

北朝鮮の特別機で、平壌からソウルまで飛んだことがある。

9年前、欧州連合の訪朝団に同行した時だ。

モデルのような乗務員が、軍用らしい真空パック詰めのピーナツを配ってくれた

▼いったん公海上に出た旧ソ連製の機体は、できたばかりの仁川(インチョン)空港に降りた。

北の飛行機は珍しく、韓国の取材陣が待ち受けていた。

青い光に浮かぶ新鋭ターミナルを窓から見て、乗務員の表情が陰る。

別れ際、失礼を承知で当夜の宿泊地を聞くと、「このまま祖国に帰ります」と冷たく返された

▼平壌―ソウルは、東京―長野ほどの距離だ。

同じ民族が半島の南北に分かれ、いがみ合う不条理。塗炭の現代史の根っこで、日本も軽からぬ責めを負う。

極東の安定に資する明るい日韓関係は、暗い過去に向き合わねば始まらない

▼韓国併合から100年にあたり、菅首相が談話を出した。

日本式の名前を押しつけるなど、国と文化を奪ったことに「痛切な反省と心からのお詫(わ)び」を表し、

未来志向の付き合いを呼びかけた内容である。

韓国大統領も喜んだという

▼謝罪で始まる関係はそろそろ終わりにしたい。

それには、先方の意に反して植民地にし、民族の誇りを傷つけた史実を直視するほかない。

またぞろ保守派が「謝罪外交」などと言い出せば、進むものも進まない

▼あの乗務員は南の発展をどう伝えただろう。

いや、口外はできまい。

すべては北の独裁者のせいだが、

半島の変転に深く関与した国として、この地の将来に無関心ではいられない。

日韓で手を携え、別の100年を紡ぎたい。






韓国併合の結果として北朝鮮拉致問題 が゜在り南北朝鮮統一が控えている。

南北が統一すれば埒問題が速やかに解消される。

強硬な手段をとるよりも早く統一することにある。自民党政権では考えられない選択だ









一夜に520の命が流れた日航ジャンボ機墜落事故から、25年になる







平成22年8月12日の天声人語よりの引用


流星観測といえば、赤いセロハンをかぶせた懐中電灯を思い出す。

校舎の屋上に寝転んで、紅の微光を頼りに経路を星図にかき入れた。

台風が心配だが、夏の圧巻は今夜が盛りのペルセウス座流星群である

▼「星が一つ流れると、魂が一つ神様に召されるの」。

童話「マッチ売りの少女」のおばあさんはそう教えた。

一夜に520の命が流れた日航ジャンボ機墜落事故から、25年になる

▼諸説くすぶる真相がどうであれ、事故が空の安全に帰さねば死者は浮かばれない。

乗客が絶望の底で残した遺書に劣らぬほど、胸を打つ文字列がある。

犠牲者ながら、つらい制服に身を包んだ客室乗務員のメモである

新婚だった対馬祐三子さん(享年29)は、重要な機内放送を任される最後部左側に乗務していた。

不時着時の脱出に備え、彼女は乱れる字で乗客への指示を復習する。

〈おちついて下さい ベルトをはずし 身のまわりを用意して下さい 荷物は持たない……〉

▼使われることのなかった走り書きは、倒産し、再建にもがく日航に欠かせないものを伝えている。

どんな状況でも乗客の安全と利便に尽くすプロ意識である。

御巣鷹こそ、語り継ぐべき負の遺産だ。

以後、日本の航空大手は一人の乗客も死なせていない

▼あの夜、本社のヘリは羽田から現場を目ざした。

樹林に炎が揺れる尾根に達したのは、報道では一番早く墜落の2時間10分後。

再度の上空取材を終えて日付が変わった帰途、同乗の整備士はたくさんの流れ星を見た。

一瞬の輝きに託された、最期の叫びを忘れまい。







飛行機による事故は全員死亡の惨事がある。

稀なことだが事故の起こる可能性はゼロではない。

飛行機に乗るときは緊張するものである。

飛行機は便利だが事故には充分な対策があってよい。

初めて飛行機に乗ったときには汗びっしょりで,次第に慣れてくる。








おいおい日ごと広がる高齢者の所在不明問題







平成22年8月13日の天声人語よりの引用

 これはもう、おめでたい国というほかない。

「最高齢記録」がずんずん更新されている。

神戸市が「125歳の女性」なら大阪市は「127歳の男性」だという。

長生き関西、130歳も夢じゃない。

おいおい▼日ごと広がる高齢者の所在不明問題。

次々と出てくる長寿者は住民登録上の話で、実際には長らく行方知れずの人ばかりだ。

125歳の住所は公園、127歳は別の区で死亡届が出ていたが、一部台帳に消し忘れがあった。

確かな最高齢は佐賀県のおばあちゃんで、113歳8カ月である

▼経緯は様々だろう。

家出を知られたくない、帰ってきた時のため住民票は削らない、やがて家族も齢(よわい)を重ね……。

紙に寿命はないから、死亡届が出ないと書類の中で延々と生き続ける

▼東京の「111歳の男性」が死後32年で見つかったのが始まりだった。

関西の名誉のためにつけ加えれば、行政の怠慢を認め、実態調査を精力的に進めるほど、妙な長生きがいち早く表に出ることになる。

全国の現実を思うと空恐ろしい

▼日本では毎年、8万件の捜索願が出され、身元不明の遺体が千以上も見つかるそうだ。

「ふらりと出たまま」から、「どこの誰やら」へ。

漂泊のうちに、肉親の記憶は色あせ、実名は無名に漂白される。

長寿大国の名が泣く怪事である

▼子や孫に囲まれて暮らすお年寄りばかりではない。

独居はつらい。

さりとて弔いもないまま、役所の書類棚で生かされ続ける高齢者は悲しすぎる。

お盆に帰るに帰れず、あの世でぼやいている人も多かろう。

なんでやねん、と。





これは日本としてひどい話である。150歳以上の方の報道はキッチリした日本として

唖然とした思いである。

書類による管理からパソコンによる管理で判ってきたものなのか。









日本相撲協会の武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)が辞任した。
後任には、元大関魁傑の放駒(はなれごま)親方が選ばれた








平成22年8月14日の天声人語よりの引用


マネジャーは足元を見つめ、リーダーは地平線を見つめるものらしい。

ただし、危機にある組織には遠近に目が利くトップが欠かせない。

急ぎの難題に向き合いながら、あるべき将来像を追うような

日本相撲協会の武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)が辞任した。

体調もあろうが、野球賭博問題のけじめとみた。


前任の北の湖親方に続く引責である。

後任には、元大関魁傑の放駒(はなれごま)親方が選ばれた

▼現役時代の魁傑は、まず見た目が際立っていた。

浅黒く、足が長い。

口を少しとがらせて仕切る姿は、アシカのような海獣を思わせたものだ。

柔道の出らしく足技も得意。

今ならアスリートと呼ばれそうな運動能力、誠実な土俵態度で女性に人気があった

▼新旧のトップは同年同月生まれの62歳。

力士としても1970年代を通してのライバルで、魁傑が幕内で最も多く取った一人が三重ノ海だった。

戦績は19対19と分けたが、改革の実績では大差をつけないといけない

▼再生のため外部から理事長を、との声を制しての内部昇格である。

深い病根をえぐるには、内科より外科の腕が要る。

「まわし組」のしがらみを断ち、縦横に暴れて因習をぶち壊してほしい。

文字通りの放駒、綱を解かれて走り回る馬の躍動を望みたい

▼語り草は78年春場所、都合10分を超す旭国戦だ。

2度の水入りで取り直しとなり、またも水入りかという時にすくい投げを決めた。

伝説の一番と同じ粘り腰を期待しよう。

小兵の旭国と違い、今度の相手は老練な巨漢、角界の悪弊である。

倒した先に地平線がある。





世間の常識からかけ余りにもかけ離れた出来事に相撲界に対する嫌悪感がつのる。

相撲は健康的でないスポ−ツで,i日本の伝統的なもので国技と言われているが,

将来は外国出身の多いスポ−ツだったら国技はせめてはずすべきだと考える。










〈戦死やあわれ/兵隊の死ぬるや あわれ……〉で知られる
竹内浩三の詩「骨のうたう」は前半と後半で調子が変わる
きょうは終戦の日








平成22年8月15日の天声人語よりの引用


〈戦死やあわれ/兵隊の死ぬるや あわれ……〉で知られる竹内浩三の詩「骨のうたう」は前半と後半で調子が変わる。

後半では、白木の箱で戻った「遺骨」が、戦後の故国を眺めて覚える深い嘆きがつづられる

▼無言の帰国をしてみると、人々はよそよそしく、戦争のことなど忘れたかのような変貌(へんぼう)ぶりだ。


そして〈がらがらどんどんと事務と常識が流れ/故国は発展にいそがしかった/女は 化粧にいそがしかった〉と続く。

浩三はルソン島で戦死している。

切ない言葉は、戦後を予言したかのような一兵卒の心の慟哭(どうこく)である

▼忘れがたい浩三の詩句を、倉本聰さんが書き、演出した劇「歸國(きこく)」の舞台に重ね合わせた。

南洋に果てた英霊たちが現代日本に立ち戻り、繁栄を垣間見る筋書きだ。テレビのドラマを見た方もおられよう

▼舞台の劇は、英霊賛美に傾かず、説教臭さに染まず、重い投げかけがあった。

豊かさと交換するように人の世の絆(きずな)は細り、家族が崩れていく。

故国を見た英霊たちの悲嘆は、多くの人の胸中に潜む感慨でもあろう

▼きょう終戦の日。

この日が盆と重なるのは、戦没者の思いが働いたかのようだ。

迎え火、送り火、精霊(しょうりょう)流し。

戦争の記憶と相まって列島の情念が一番深まるときである。

得たものと失ったものを省みるに相応(ふさわ)しい日でもあろう

▼「戦争に負けるということは白いことなのだ」と故・吉村昭さんの近刊『白い道』にあった。

その「白」は今、どんな色に染まったのだろう。

めいめいが描いてきた「戦後」を問うように、65年目の夏がゆく。




終戦の日と言わずに敗戦の日と改めるべきである。

敗戦の日からも戦後の苦しみが始まっている。忘れた頃に戦争が叉始める

人間の性とはあきらめたくない。敗戦の事実は何時までも記憶すべきことである

「五月のように」によく竹内浩三のことが紹介されている。

竹内浩三  作
中井利亮 補作
戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や


白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女のみだしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった


ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や








歌人の河野裕子(かわの・ゆうこ)さんにお目にかかったことはなかったが
その歌はいくつもわが胸にあった







平成22年8月16日の天声人語よりの引用


 詩歌に親しむ楽しみはさまざまにあるが、妙(たえ)なる一行に出会う幸せはその最たるものだ。

心のポケットにしまい込み、時おりそっと取り出しては味わい直してみる。

慰められたり、励まされたりもする

歌人の河野裕子(かわの・ゆうこ)さんにお目にかかったことはなかったが、その歌はいくつもわが胸にあった。

たとえば〈青林檎(あおりんご)与へしことを唯一の積極として別れ来にけり〉は、若い頃にしまい込んだ。

そんな人がいつか現れる淡い憧(あこが)れを抱いたものだ

〈たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏(くら)き器を近江と言へり〉は美しい旋律にまいった。

真水を抱くのは琵琶湖だが、湖国の風土にとどまらず女性の身体性の暗喩(あんゆ)でもあるという。

歌もここまでくると、一編の物語をゆうに超えると、素人ながらに感じ入った

▼「母性」につらなる歌も忘れがたい。

〈朝に見て昼には呼びて夜は触れ確かめをらねば子は消ゆるもの〉。

「わが子を詠んでこれほど母の思いを率直に歌った人はあまりなかろう」は、「折々のうた」での大岡信さんの評である

▼そうした秀歌の数々を、しなやかに詠み続けた河野さんが64歳で亡くなった。

乳がんの手術をして闘病していた。

病と向き合う中でいっそう歌境を深めていたと聞く。

早すぎる落花に、歌人一家で知られるご家族の悲痛を思う

▼夫君の細胞生物学者、永田和宏さんは朝日歌壇の選者でもある。

あこがれの青林檎は、その掌(たなごころ)への献上だったのだろうか。

遺(のこ)された歌は多くの人の胸にしまわれ、これからも愛誦(あいしょう)されることだろう

励まし、慰める調べとなって。


河野裕子の短歌の一部

逆立ちしておまへがおれを眺めてた たつた一度きりのあの夏のこと (『森のやうに獣のやうに』昭和47)

たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか (『森のやうに獣のやうに』昭和47)

ブラウスの中まで明るき初夏の陽にけぶれるごときわが乳房あり 『森のやうに獣のやうに』昭和47)

まがなしくいのち二つとなりし身を泉のごとき夜の湯に浸す 『ひるがほ』昭和51)

しんしんとひとすぢ続く蝉のこゑ産みたる後の薄明に聴こゆ (『ひるがほ』昭和51)

たつぷりと真水を抱きてしづもれる器を近江と言へり 『桜森』昭和55)

近現代短歌まとめより





一つの喪失が一つの再生をもたらす臓器移植は、命のリレーといわれる
本人の書面ではなく、家族の承諾による脳死者からの臓器移植が、
国内で初めて実現した








平成22年8月17日の天声人語よりの引用


腎臓移植を受けた女児の母親が、提供者の家族に送った言葉がある。

「命を確かに引き継ぎました。

お陰で娘は元気に小学校へ通っています」。

仲立ちした日本臓器移植ネットワークの冊子で見た。

3年間の透析生活を脱した少女は、神様にもらったと信じているそうだ

▼一つの喪失が一つの再生をもたらす臓器移植は、命のリレーといわれる。

いわば涙の水彩で花束を描き、見知らぬ家族に贈る行為である。

鼓動が響く脳死段階での決断ともなれば、涙の色はより濃いだろう

▼本人の書面ではなく、家族の承諾による脳死者からの臓器移植が、国内で初めて実現した。

交通事故に遭ったその男性は生前、臓器を提供してもいいと家族に語っていたという。

若い心臓や肝臓が5人に移された

▼脳死移植の条件を緩めた結果である。

15歳未満の小さな臓器も生かせることになった。

海外で移植を目ざす「○○ちゃんを救う会」を必要としない時代を待ちたい。

とはいえ脳死宣告に沈む家族には、気持ちを整える時間が要る。

決断を急(せ)かすことは許されない

▼移植を待ちながら、提供者に転じた少年がいる。

心臓移植のためドイツに渡るも、直後に事切れた11歳だ。

万一の時の覚悟を問われ、「僕は人からもらわんと生きられないから、使えるもんは何でもあげる」と言っていた

▼息子の臓器を現地で供した親は、移植で救われた同世代に語る。

「誰に何の遠慮もなく、すくすくと成長してほしい」。

最愛の人が何人かの中で生き続ける。

この安らぎなくして、命のバトンはつながらない。





日本では生体移植がすすんでいるが脳死移植は少ない。

このところ本人の承諾していないのを家族の承諾だけの移植が

10例ほど行われているが,危険が伴い余ほど慎重に進めるべきことである。








米ロチェスター大学などの研究チームが、「赤を身につけた男性は
女性からより魅力的に見える」との説を発表した





平成22年8月18日の天声人語よりの引用


セザンヌの連作「赤いチョッキの少年」で最も有名なのは、一昨年にスイスで盗まれた一枚だろう。

少年は職業モデルで、左手でほおづえをつく中性的な横顔を、上半身の赤がきりりと引き締めている

▼日本ではなぜか、赤は長らく「女の子の色」だった。

本来は火であり血であり、赤ん坊や還暦のちゃんちゃんこが示す通り、元気の色である。

男女を問わず、燃え盛る生命力を異性に誇示する色でもあろう

▼米ロチェスター大学などの研究チームが、「赤を身につけた男性は、女性からより魅力的に見える」との説を発表した。

米国、英国、ドイツ、中国で七つの実験をした結果で、文化的な背景は関係なかった

▼例えば、同じ男性のシャツを赤と緑にして見せたところ、若い女性たちの好感度は赤が勝った。

モノクロ写真を赤と白の枠にしても同じだった。

どうも赤が入ると、地位や収入、性的魅力が豊かに映るようだ。

一部のエビや霊長類では、メスはより赤いオスになびくという。

人間も同じらしい


▼夏目漱石の『坊っちゃん』で、敵役の「赤シャツ」はずる賢い女好きに描かれる。

主人公は〈人を馬鹿にしている……この男は年が年中赤シャツを着るんだそうだ。

妙な病気があった者だ〉とぼろくそだ。

でも研究チームに言わせれば、病気どころか理にかなった勝負服だろう

▼無論、赤シャツに赤チョッキで固めても、中身が伴わねば妙な装いで終わる。

男女とも、色で上げ底するまでもない本物を目ざすべし。

赤の魔力なるもの、せいぜい水増しのコロン程度と心得たい。





赤は刺激的だが老齢者が良く赤を身につける所を見かける。









暦の上ではとうに残暑となるが、名残とするには濃厚な暑気である









平成22年8月19日の天声人語よりの引用


暦の上ではとうに残暑となるが、名残とするには濃厚な暑気である。

30度近い熱帯夜は虫にもこたえるとみえ、セミの朝鳴きは心なしか弱々しい。

路上の水を吸うアゲハの羽も重そうだ

▼内側からも冷やそうと、そうめんや豆腐が絶えない食卓も多かろう。

ただ、冷たい物が過ぎると胃腸の働きが鈍り、食欲が衰えるのでご用心。

口からの涼は、たまにとるから心地よく五臓六腑(ごぞうろっぷ)に染み渡るらしい。

俳句の日ということで、まず涼やかな句を一つ。

〈冷麦(ひやむぎ)に氷残りて鳴りにけり〉篠原温亭


▼東京でも38度を超えた猛暑は、西日本を中心になお暴れる気配である。

この夏、熱中症で病院に運ばれた人は3万を超え、死者は東京区部だけで約100人。

独り暮らしのお年寄りが息絶える例が多い

▼フランスを熱波が襲った2003年、炎暑に不慣れなパリなどで約1万5千人が亡くなった。

かなりの死者がやはり独居の高齢者で、天災ながら、都会の孤独として社会問題になった

▼酷暑そのものが、ある意味で人災だろう。


車やエアコンの排熱、昼の吸収熱が都市を暖めるヒートアイランド(熱の島)現象だ。

ゲリラ豪雨の一因とされる。

だから高浜虚子のように、〈見苦しや残る暑さの久しきは〉と、突き放して残暑を腐すわけにもいかなくなった

▼梅雨明けに添えて、ひと月前の小欄は「天変地異のない、しっかりした夏を願う」と書いた。

以来、ひどい台風がないのはいいとして、ここまで「しっかり」するとは思わなかった。

自業自得とはいえ、われらが熱の島の空調、甘くない。





今年ほどに暑さが続いた年は少ない。熱中者が多発している。

9月に入っても暑さは続いている。

暑さ寒さは彼岸までで彼岸にならないと涼しくならないかも知れない。









世界のホームラン王、王貞治さん(70)の母登美(とみ)さんが
108歳の天寿を全うした








平成22年8月20日の天声人語よりの引用

名を成した人の親なら、子育て自慢も許されよう。

半世紀も「偉人の母」でありながら、控えめを通したこの人は稀有(けう)な例である。

世界のホームラン王、王貞治さん(70)の母登美(とみ)さんが108歳の天寿を全うした

▼世界記録を抜く756号が出た試合、グラウンドに招かれた老父母は、孝行息子から記念の花盾を受けた。

質素な普段着、慣れぬ場ではにかむ笑顔に、人格者が巣立った家庭をのぞき見た思いだった

▼富山市で生まれた登美さんは、10代半ばで東京に奉公に出て、中国出身の王仕福(しふく)さんと出会う。

差別の中、どんな仕事もいとわぬ出稼ぎ労働者だった。

若夫婦は、屋号ごと継いだ下町の中華そば屋「五十番」に将来を賭けた

▼王さん曰(いわ)く「気は強いが、一面では優しく陽気な働き者」は、一途で不器用な夫を支え、小さな店を切り回した。

夕飯は登美さんが作る栄養満点のおじやで、ふうふう食べたという。

仮死状態で生まれた病弱な子は大きく育ち、球史に太字の名を刻む

▼母は、球場に通い詰める〈後楽園の名物ばあさん〉でもあった。

現役引退時の思いを、自著に記す。

「無学の上に特別な才能も何もない親のもとで、ここまでやってくれて、母さんは幸せです」(『ありがとうの歳月を生きて』勁文社)

▼いや、徹夜の看病がなければ、そして大空襲の夜におぶって逃げてくれなければ、868本の本塁打はない。

多くの野球少年が「世界」を夢見ることもなかったろう。

そうそう、左利きの矯正をあきらめてくれたのも正しかった。

「ありがとう」は尽きない。




65歳以上の高齢者は前年に比べて46万人増え2944万人、

総人口に占める割合は0・4ポイント増の23・1%となりいずれも過去最高を更新した。

80歳以上は826万人と初めて800万人を突破した。

100歳以上になると少ない。日本の最高令者が113歳である。

王さんのお母さんの108歳は珍しい。王選手自身の記録も珍しい。








53年前に南アフリカで投函(とうかん)された絵はがきが、
どういうわけか今月初旬、英国南部のあて先に配達されたという。








平成22年8月21日の天声人語よりの引用


旅の空から絵はがきを出す。

美しい風物と背中合わせに、道中の無事を告げる習いである。

短い海外旅行だと、はがきの前に本人が帰国することがままあるから間が悪い。

まずは便り、次に土産を携えた送り主という順が望ましい

▼この夏、スイスや米国の観光地で日本人が亡くなる事故があった。

一葉のエアメールが末期の音信となった方もおられよう。

天からの便りほど悲しいものはない。

事務的に届く郵便は、時に冷酷だ

▼53年前に南アフリカで投函(とうかん)された絵はがきが、どういうわけか今月初旬、英国南部のあて先に配達されたという。

消印は1957年11月2日。

はがきの住所にあった共学の寄宿学校は、今は別の教育施設である

▼文面には「おばあちゃんと私は今、ホテルの夕食を待っているところだよ」とあり、旅先から孫の寄宿生にあてたものらしい。

どこで迷子になったのか、なんで今ごろ届いたのかは定かでない。

送り手の祖父母は恐らくこの世にいないだろう

▼1日の遅れで大目玉を食らった「ゆうパック」の不手際は記憶に新しい。

同じ遅配でも、半世紀となると神々しいものがある。

絵はがきや切手には骨董(こっとう)的な価値も生じ、あて名の人が手にしたら、驚きはしても怒るまい。

出すぎたクイは打たれない

▼〈まつすぐにわれをめざしてたどり来し釧路の葉書(はがき)雨にぬれたり〉岡部桂一郎。

風雨を抜け、まっすぐに届くはずの便りが消える。

作為か否か、それが時空の裂け目からひょっこり現れる。

自然ばかりか、人事にもときたま神秘があると知る奇談である。





この遅れた郵便の話はミステリ−である。何処に眠っていたのか解明できないものなのか。









沢村は浩三と同じ宇治山田市(現伊勢市)の生まれ
京都商業から春夏3度、甲子園に出場する
草創期のプロで活躍し
召集をうけて南方に向かう途上、船が沈められて27年の生涯を閉じた






平成22年8月22日の天声人語よりの引用


1週間前の終戦の日、戦火に散った一兵卒の詩人竹内浩三について書いた。

三重県伊勢市にある浩三の墓を10年ほど前に訪ねたことがある。

手を合わせていると、近くに野球のボールをかたどった墓標があった。

やはり戦死した伝説の名投手、沢村栄治が眠る墓だと教えられた

▼沢村は浩三と同じ宇治山田市(現伊勢市)の生まれ。

京都商業から春夏3度、甲子園に出場する。

草創期のプロで活躍したが、時代は野球を許さなかった。

召集をうけて南方に向かう途上、船が沈められて27年の生涯を閉じた


▼きのうの高校野球決勝を見ながら、その墓標がふと胸をよぎった。

二つの原爆忌のはざまに開幕した甲子園は、終戦の日を過ぎて、沖縄・興南の春夏連覇で幕を閉じた。

若い白球の宴が、平和を祈る季節と重なるのは、毎年ながら天の配剤のように思われる

▼沖縄勢の出場は1958(昭和33)年の首里高に始まる。

米軍占領下からの出場は大きな拍手で迎えられた。

だが沖縄は「外国」だった

持ち帰った甲子園の土は植物防疫法に触れるとして那覇港に捨てられる

▼後日、同情した航空会社の客室乗務員たちが消毒した甲子園の小石を学校に贈った。

美談はいつも悲話と裏表だ。

それから半世紀と2年が流れ、土ではなく優勝旗が沖縄へ渡る

▼〈それは単なる野球場の名称ではない。

こんな叙情的なひろがりをもったスタジアムが世界じゅうにあるだろうか〉と詩人の谷川俊太郎さんは甲子園を言う。

平和に抱かれてこその叙情であろう。

思いを新たに、白球の夏を見送る。




沢村投手は名投手であった。キチンとした記録をとてのことで゛ある。

沖縄の興南高校も普段のたゆまぬ努力で優勝したものである。

努力が結果として報いられることで奇跡は数少ないことである。









きょうは二十四節気の処暑
暑さが収まる意味だが、夏の「炎帝」は暴君のうえ
長逗留(とうりゅう)を決め込んでいる








平成22年8月23日の天声人語よりの引用


言葉ひとつにも暑苦しいものと涼やかなものがある。

「深窓の佳人」などと聞けば、それだけで体感温度はやや下がる。

たとえば避暑地の、緑の木立に開いた窓を思えば、佳人の姿はさておき涼気にふれる心地がする

▼そんな窓とは縁遠い「浅窓の中年」だが、せめてもの涼をと「緑のカーテン」を育ててみた。

5月に植えたヒョウタンがネットを這(は)って窓を覆っている。

ハート形の葉が重なって日差しを和らげてくれる。

浅緑色の実がぶら下がり、グラマーな曲線美に気分もなごむ

▼気分だけでなく、実際に温度も低くなる。


吸い上げた水分を葉っぱから蒸散させ、周囲の熱を奪ってくれる。

サツマイモを約100平方メートル植えると、1時間あたりの冷却能力は6畳用エアコン10台分という試算もあるそうだから、植物を侮れない

▼緑に加えて打ち水も、試してみると結構なものだ。

地面のほてりを鎮めて風情がある。


かすかな風を感じるのは、気のせいでなく、打った水が蒸発して周りの空気が流れ込むためという。

ローテクながら奥の深い納涼の知恵である

▼きょうは二十四節気の処暑。

暑さが収まる意味だが、夏の「炎帝」は暴君のうえ長逗留(とうりゅう)を決め込んでいる。


とはいえ先日郊外を訪ねたら、薄(すすき)の穂が伸び赤トンボが里を舞っていた。

もうひと辛抱、だといいのだが

▼冒頭に戻って、今度は暑苦しい言葉をあげるなら「西日の鬼瓦」はいかがだろう。

赤銅色に照る鬼瓦氏の労を思いつつ、手づくりの涼を喜ぶのも悪くない。

空調一辺倒で「消夏法」を死語にするのは勿体(もったい)ない。





本当に今年は記録破りの暑さである。









森の主、カブトムシの地位にある菅首相は、
当選1回議員約100人と意見を交わすという








平成22年8月24日の天声人語よりの引用


8年前の朝日歌壇から宮沢洋子さんの一首を引く。

〈夏休みを共に過ごせし甲虫類(こうちゅうるい)森に戻せばもぞりもぞり去る〉。

人を楽しませる役目を終え、樹間に消える虫たちを思う。

飛ぶものは降り、はうものは止まり、雑木林に静寂が戻る

▼なお生気にあふれ、〈もぞり〉どころか羽音ますます高いのが永田町の「民主の森」である。

森の主、カブトムシの地位にある菅首相は、当選1回議員約100人と意見を交わすという。

時の首相に会いたいと誘われ、「やだよ」と言える猛者は少ない

▼その一人である小沢前幹事長。

自らの政治塾が開講し、明日は注目の塾長講演だ。


鳩山前首相と共に職を辞して以来、小沢氏はめったにお目にかかれぬ、オオクワガタのような存在である

▼軽井沢での園遊会。

ホストの鳩山氏は「お出ましいただきました」と小沢氏を的確に紹介した。

大樹の洞(うろ)から黒光りの巨体がのぞく図だ。

ちなみにオオクワガタは臆病(おくびょう)で、危険を察するとすぐ洞に隠れる。

飛ぶのも、仕方なく巣を変える時ぐらいという

▼菅氏、小沢氏とも、代表選を見すえた〈もぞりもぞり〉であろう。

オオクワガタ氏には、取り巻きのカナブンらが出陣を求めている。

代役でコクワガタが立つようではカブトムシの思うつぼ、というわけか

▼樹液に群がる甲虫の多くは夜行性とか。

だからといって、森の主が民主に代わっても暗がりで動く政治とは情けない。

政策そっちのけの抗争を、経済も外交も許してはくれまい。

見えにくい上、時間と税金を浪費する「樹上のけんか」のむなしさよ。





激しい菅氏と小沢氏との代表選挙が繰り広げられた。

結果は国民の常識どおりの結果になっているが

代議士と国民の考えの隔たりを露呈しての結果であった。

叉小沢氏がテレビに何度も出る風景は

今まで見たことの無い風景で異常さをさらに際立たせた。










落盤が起きたチリの鉱山で、
事故から17日後に作業員33人全員の生存が確認された。









平成22年8月25日の天声人語よりの引用


 恐怖症ではないけれど、高所より閉所が苦手だ。

高所には少なくとも落ちる自由があるが、閉所は動きがとれない。

怖さの正体は狭さの圧迫感ではなく、ずっとこのままだったらという「終わりなき時」の重圧だろう

▼落盤が起きたチリの鉱山で、事故から17日後に作業員33人全員の生存が確認された。

地下700メートルの避難所に逃れ、備蓄の食料や水で命をつないでいたという。


捜索の掘削機に託した〈全員無事〉のメモが地表に届いた瞬間、無限の時の中にぼんやり「終」の字が見えたに違いない

▼救出に4カ月はかかるという。

昼夜のない地底では途方もない時間である。

細い管で食料や薬を送りながら、脱出用の穴を掘る。

連絡がつくのは心強いが、地震国だし病気も怖い。

地の中も上も、これからが本当の闘いになる

▼このニュースを聞いて、モスクワで進行中の「閉じこもり実験」を思い出した。

志願の男性6人を520日間、550平方メートルの実験棟に密閉し、心身への影響を調べる。

火星往復の旅を想定したもので、「帰還」は来年11月という


▼チリの出来事がロシアの公開実験と決定的に違うのは、自分の意思で終われないことだろう。

状況は潜水艦か宇宙ステーションの非常事態に近い。

チリ政府は米航空宇宙局(NASA)に助言を求めるそうだ

▼優先して差し入れるべきは何か、心身の健康をいかに保つか。

未知の極限体験から学ぶべきことはいくつもある。

33の命を賭けた、ぶっつけ本番の救出作戦である。


一人も欠けずに、奇跡の主人公となる日を待ちたい。





チリでの落盤事故は現在も続いていて予断は許さない状況で

無事に解決することを祈るだけである。

連絡がついての内部の様子が報道されてホッとする気持ちである。









経済史に残る1ドル=79円台の円高は、1月に大震災、
3月に地下鉄サリン事件があった1995年の4月である
あの相場、空前ではあるが絶後とは言えなくなってきた








平成22年8月26日の天声人語よりの引用

 「××でハワイどころじゃないとキャンセルしたけど、円高なんでやっぱり行きますわ」。

その春、関西の旅行業者にこんな電話が相次いだ。

「××」を埋められる人は、経済にも、社会にも通じている。

答えは阪神大震災だ

▼経済史に残る1ドル=79円台の円高は、1月に大震災、3月に地下鉄サリン事件があった1995年の4月である。

あの相場、空前ではあるが絶後とは言えなくなってきた。

日本経済は米欧よりマシと思われているのか、円は一時83円台をつけた

▼円高は海外旅行や輸入品を安くするが、国産品を値下げ競争に巻き込み、デフレを促す。

景気回復を支えてきた輸出にも痛い。

だらだら下げ続ける株価は95年当時の半分の水準。

消費や雇用、円高をどうにかせいという催促相場である

▼しかし民主党は内輪の争いにかまけ、国策への目配りを欠いた。

代表選が読めぬ限り、菅首相も経済対策に腰が入るまい。


そこを見透かし、投機筋は当局の覚悟を試している。

無策を見越して円を買い進み、15年前の壁に挑むだろう

▼政府の力を試すように国難が重なることがある。

天災、無差別テロに続き円高と格闘した村山内閣に比べたら、民主党はまだ恵まれている。

衆院の多数を生かせば強い策を打てるのに、その多数ゆえに緊張感が薄れているかに見える

▼この日本、経済も政治もダメとなれば、豊かな四季と自然の懐に逃げ込みたくもなる。

ところが気象庁によると、秋の訪れは遅く、9月いっぱいは30度を超える日があるとのこと。

ハワイにでも行きたくなった。





世界同時不況の中で円が売られてドルが買われる状況が進んでいる。

円高になり輸出に頼る業種がさらに苦しくなってきている。

日本の為替介入も一時的な効果でまだまだ円高が進むようだ。

新しい政権の手腕が問われる状況にある。

大企業が外国で工場をもって日本の中での産業空洞化が危惧されている。

中小企業にとっては生死の瀬戸際にある。

政府は是非頑張って欲しいものだ。









9月の代表選は菅氏と小沢氏の勝負になるらしい







平成22年8月27日の天声人語よりの引用


鳩山前首相は不思議な人だ。

政界引退を口にしたのもつかの間、民主党の結束を訴えて菅首相、小沢前幹事長の仲介役を買って出た。

ところが対決のおぜん立てをしただけで、伝書バトはロシアに飛び去った

▼9月の代表選は菅氏と小沢氏の勝負になるらしい。

前に書いた「民主の森」の物語に沿えば、いよいよカブトムシとオオクワガタの激突である。

カブトを支えるとしていた鳩山氏は、なぜかクワガタの応援に回るそうだ。

3カ月前の「抱き合い心中」は何だったのか

▼ともあれ小沢氏に謝りたい。

本物のオオクワガタは怖がりで、危険を感じると巣に隠れる、と紹介した件だ。

勝算があるのだろうが、氏は意外にも、世論を敵に回し、国会でたたかれるリスクを取った

▼それでもやはり、小沢氏は首相に向かないと思う。

まず、土建業界との腐れ縁が示す古い政治。

豊かな資金で手勢を養い、来るべき政界再編、日本の大改革に備えているやに聞くが、目的が立派なら手法は問わないという時代ではない

▼次に、カネの出入りをちゃんと説明しない、広い意味での出無精と口べたである。

リーダーの資質としては金権体質より深刻かもしれない。

鳴かないのがすごみになるのは、樹上で争う大型甲虫ぐらいだ

▼森を二分する戦いは政治史に残ろう。

菅氏は、「あらゆる意味で反面教師」とする角さんの愛(まな)弟子と首相を争うことになる。

「大変いいこと」と語る顔はこわばっていたが、この分かりやすさ、恥じることはない。

それこそ、新しい政治に求められているものである。





小沢氏が代表選挙に出馬することは個人的に切羽詰った事情があるに違いない。

自民党時代からあの方のやり方はいつも表面に出ず代わりを立て裏で悪い操作をする手法が今までに多かった。

余程の事情が有りそうだと感ずるのは自分一人なのだろうか。よく悪い人たちが使う手だ。







熱中症は4万人超を病院に送り、
お年寄りを中心に何百もの命を奪った。
老人といえば、熱にあぶり出されるように、
戸籍の中だけの長寿者が次々と見つかっている








平成22年8月28日の天声人語よりの引用


ゲリラ豪雨なる言葉が流布する前、夕立は清涼感あふれる風物だった。

突然かき曇り、雷鳴と大粒の雨が続く。

天の打ち水が洗い流すのは、炎暑だけではない。

ホコリ、昼間の憂さ、そして……

▼〈入道雲にのって/夏休みはいってしまった/「サヨナラ」のかわりに/素晴らしい夕立をふりまいて〉。

高田敏子さんの詩「忘れもの」の冒頭だ。

幼いころ、8月下旬は宿題という年貢の納め時だった。

毎日が飛ぶように流れ、あてにしていた「明日」はすぐ「昨日」になった

▼激しい季節の終わりには、子どもならずとも一抹の寂しさを覚える。

静かなる溶暗。

すべてを白くした頭上の光が、ゆるゆるとフェードアウトしていく。

〈身辺にものの影ある晩夏かな〉倉田紘文

▼今年ばかりはその影が恋しい。

熱中症は4万人超を病院に送り、お年寄りを中心に何百もの命を奪った。

老人といえば、熱にあぶり出されるように、戸籍の中だけの長寿者が次々と見つかっている。

長崎県には「200歳」がいた。行政の「忘れもの」だ

▼強く狂おしい夏は、残していく気だるさも平年の比ではない。

優しい秋を待ちながら、くたびれた心身をしばし横たえる頃合いだろう。

そんな時、決まって耳の底に流れる旋律がある

▼〈ゆく夏に/名残る暑さは夕焼けを/吸って燃え立つ葉鶏頭(はげいとう)……〉。

和歌を思わせる語調と、鮮烈な情景で始まる松任谷由実さんの「晩夏」だ。

その植物は、炎天の記憶を血痕のごとく葉に散らし、あかね空の下で黙している。

安らぎの季節まで、もう少しの我慢である。



今年ほどに暑くて熱中症を心配する人達が多いのは初めてのことである。

それほどに暑い夏が続いていたことである。

9月になっても暑さは続いている。







おとといの朝刊に「紙があって、よかった」という広告が載っていた。
日本新聞協会に加盟する全103紙が
紙の価値を再発見してもらおうと一斉掲載した
その軽さ薄さと裏腹に紙にはどんな重い内容も盛ることができる









平成22年8月29日の天声人語よりの引用



実際にそうなのだから仕方ないが、紙は軽くて薄いたとえによく用いられる。

あまりいい使われ方はしない。「紙ぺらのような人物」とか「人情紙のごとし」などと言う

▼結婚して1年の記念日は紙婚式と呼ぶ。

2年たつと藁(わら)婚式だから、藁よりも重みがないことになろうか。

おぼれる者は藁をもつかむと言うが、紙はつかんでももらえないようだ。

四大発明とされ、長く人類に寄与してきた割には、比喩(ひゆ)は不遇をかこっている

▼おとといの朝刊に「紙があって、よかった。」という広告が載っていた。

日本新聞協会に加盟する全103紙が、紙の価値を再発見してもらおうと一斉掲載した。

その軽さ薄さと裏腹に、紙にはどんな重い内容も盛ることができる。


新聞に限らない。

文芸も絵画も、楽譜も手紙も、人間の想像力や、伝えたい思いを紙は受け止めてきた

▼広告の背景には電子時代への危機感がある。

新しい端末が相次いで登場し、今後は電子の猛攻に紙がたじろぐせめぎ合いとなろう。

わがことながら、紙媒体の先行きは安楽とはいえない


▼これは和紙についてだが、書家の篠田桃紅さんが、「書かれたものが紙の上に立つように見えるのは、

つまり紙の持ついのちなのであろう」と随筆に書いていた。

同じことを、墨の芸術ならぬ活字にも思う。

紙の字の方が電子画面より質量を伴って立ってくるのは、当方のひいき目だろうか

▼「紙のいのち」に恥じぬコラムをと念じつつ、日々至らざるの思いは残る。

新聞紙に薄っぺらを嘆かれぬよう、残暑の夏に鉢巻きを締め直す。







I PADで書物が読めて,雑誌 新聞も読める時代になってきている。現在はアップル社だけで日本の企業が

秋に参入するようになれば価格も競争でもって安くなるに違いないと待ち遠しい。

紙で新聞を読む時代が少なくなるが,報道内容の競争をして,本来のマスコミとしての責務は大変重大である。

良心的に取材を通し明るい社会に貢献してほしいものである。

戦時中でのマスコミは惨憺たるものだった。敗戦後間もなくの間、小さな軽く薄ぺらい新聞を読んでいた記憶がある。









東京オリンピックには94の国と地域から選手が参加
柔道はこのとき初めて五輪競技になった
そのアントン・ヘーシンクさんの訃報(ふほう)がオランダから届いた








平成22年8月30日の天声人語よりの引用


東京オリンピックには94の国と地域から選手が参加した。

あまたの名選手の中で、印象深い外国人を3人あげるなら、

マラソンのアベベ、女子体操のチャスラフスカ、そして柔道のヘーシンクといったところか。

柔道はこのとき初めて五輪競技になった

▼そのアントン・ヘーシンクさんの訃報(ふほう)がオランダから届いた。

享年76の柔道家は、東京五輪で日本人を一番悔しがらせた人だったかもしれない。

本人は後々まで「日本では今も悪役」と冗談めかして言っていたそうだ

▼神永昭夫選手(故人)との無差別級決勝は、あの場面なしに語れない。

勝利を決めた瞬間、興奮したオランダの関係者が畳に駆け上がるのを、厳しく手で制止した。

自身には笑顔もガッツポーズもない。

敗者への敬意と挙措に、多くの日本人はこの柔道家が「本物」だと知った

▼その強さは際立っていた。勝てる者はいないと言われた。

白羽の矢が立ったのが神永選手である。

「誰かがやらなければならない大役」だったと、悲壮ともいえる記述が公式報告書に残る

▼そしてノーサイドの高貴が、この勝負にはあった。

一方が「神永さんは敵ではなく仲間なのです」と言えば、一方は「私のとるべき道は良き敗者たること。

心からヘーシンクを祝福しました」。

素朴さの中で五輪は光っていた

▼「日本に生れた柔道が世界に広まり、オランダで花咲かせたことを祝福し……」と当時の小欄は書いている。

「柔道からJUDO」への貢献は末永く続いた。

思えばまたとない人物に、あのとき日本は敗れたのであろう。






オランダのへーシングは大変に強かった。始めの頃は日本のお家芸である柔道を普及させる為に

わざと負けていたのかと思っていたのだが,本当に強い選手のようである。

時代の流れをばつくづく感じさせる訃報である。








平和と安穏を求める8月の言葉から






平成22年8月30日の天声人語よりの引用


〈八月五日(日)晴れ〉。

少女の日記は〈明日からは、家屋疎開の整理だ。

一生懸命がんばろうと思う〉と結ばれている。

13歳。原爆で亡くなる前日だった。

平和と安穏を求める8月の言葉から

▼広島の平和記念式に米国大使が初参列した。

東京都に住む被爆者、野村秀治さん(78)は「行動」に期待する。

「見たいのは、『核のある世界』の幕を開けた米国が核廃絶の先頭に立って行動する姿です。

その時、私は初めてあの国を許せる」


▼長崎の式では、地元高校の山下花奈さん(17)が司会を務めた。

曽祖母(93)に惨状を聞いて育った被爆4世。

「私は、被爆者の声を聞ける最後の世代かもしれない。

原爆の恐ろしさを5世、6世にも伝えていきたい」


▼イラク戦争で殺された市民を数え続けるNGOの設立者、ハミット・ダーダガンさん(49)。

「理不尽に殺された人たちをカウントするのは、その死を記憶にとどめ、弔うことでもある」。

テロを含め10万人、なお増加中

▼その戦争に反対する国連演説で注目されたドミニク・ドビルパン元仏外相(56)は

「米国人が大好きだから、直言する義務があると感じた」と振り返る。

「私の声ではあったが、同時に、世界中で戦争反対のデモを繰り広げた人々の声だと意識していた」

▼「ここにいれば生活の心配はないが、暮らしを向上させたい。

子どもにも夢と目標を持たせたい。

生き直すため、日本へ行く」。

ミャンマーで迫害を受け、タイの難民キャンプで暮らす少数民族の男性(24)だ。

まず5家族が、戦争を65年していない国に渡る。




ミャンマーは勝手に自国の名称をかえただけでいつまでも,ビルまであってほしい。

政権がころころ変わるたびに国名が変われば世界中が混乱する。国際的にもなんとかすべきことである。

叉国際的な約束があってよいこしとだ。ビルマは良い国 ミャンマーは悪い国の印象が大変に強い。








天皇と日米安全保障条約



何故に簡単にi日米安保が解消出きるのに,何故日本政府はしないで基地問題で沖縄国民を強いては日本人を

苦しめているのかと不思議で仕方がなかった。

だが京都新聞の9月17日付け号で「東アジアの時代」で第4部日本安保50年で豊下楢彦関西大学教授との談話が書かれていて

天皇が関わっていることを始めて知った。

気になる文章は・・・・・・米国は日本国内の基地使用で一切の制限を受けていない。こうなった背景には昭和天皇による無条件的基地使用の

方針があった。天皇は極東軍事裁判での訴追を免れたが,北東アジアからの国際共産主義勢力が南下して日本を侵略、

天皇制を打倒するのではないかと恐れていた。・・・・・・・・・天皇から米側には朝鮮戦争の勃発後「日本から基地を提供する」という

メッセ-ジが複数回送られている。戦後、天皇は「象徴」になったが、講和と安保をめぐっては「天皇外交」と言うべき天皇の「政治行為」

があった。・・・・・・・・・。

これは大変けしからんと思い (天皇 日米安全保障条約) で検索してみると種々と沢山なことが出てくる。   

読みきれないが国民が既に知っていて,自分だけが今頃に気ずくとは情けないことである。

高校時代のクラス会で基地反対の討論しているなか 皆が基地反対運動しようとしているのに対して,ひょっこり立ち上がり

「日本が負けたのだから仕方がないのでは・・・・・・ 」と発言して皆からひどく叱られた記憶がある。

でも現在敗戦後60年以上も経ていても,いまだにアメリカに隷属しているのではこれは大変に危険である。

天皇がいまだに政治権力を持っていて,尚且つ政治的に利用しようとする政治家たちが多くいたりする中,大変危険なことである。

アメリカが一番天皇を戦後大いに利用しているのではないかと思ったりしてくる。

以前に書いたマッカ−サーの日記をば引用してみよう。

以下インタ-ネットよりの引用

マッカーサー回想記 (訳文)  

(本文は、1964年に出版された、Douglus MacArthur著 Reminiscencesの中で昭和天皇との最初の会見の様子を記した、P288を和訳したものである。

訳文は、昭和39年1月25日付け、朝日新聞より引用している。傍線は、本稿筆者が付した。)

 天皇は落ち着きがなく、それまでの幾月かの緊張を、はっきり顔に表していた。

天皇の通訳官以外は、全部退席させた後、私達は、長い迎賓室の端にある暖炉の前に座った。

 私が、米国製のタバコを差し出すと、天皇は礼を言って受け取られた。そのタバコの火をつけて差し上げたとき、私は、天皇の手が震えているのに気がついた。

私は、できるだけ天皇のご気分を楽にすることにつとめたが、天皇の感じている屈辱の苦しみが、いかに深いものであるかが、私には、よくわかっていた。

 私は、天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴え始めるのではないか、という不安を感じた。

連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろと言う声がかなり強くあがっていた。

現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、天皇が筆頭に記されていたのだ。

私は、そのような不公正な行動が、いかに悲劇的な結果を招くことになるかが、よく分っていたので、そう言った動きには強力に抵抗した。

 ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、私は、もしそんな事をすれば、少なくとも百万の将兵が必要になると警告した。

天皇が戦争犯罪者として起訴され、おそらく絞首刑に処せられる事にでもなれば、日本に軍政をしかねばならなくなり、ゲリラ戦が始まる事は、

まず間違いないと私は見ていた。結局天皇の名は、リストからはずされたのだが、こういったいきさつを、天皇は少しも知っていなかったのである。

(昭和天皇のお言葉)

 「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する、全責任を負うものとして、

私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした。」

 私は、大きい感動にゆすぶられた。死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする。

この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても、日本の最上の紳士である事を感じ取ったのである。

(付記)

 マッカーサー元帥は、側近のフェラーズ代将に、「私は天皇にキスしてやりたいほどだった。あんな誠実な人間をかつて見たことがない」と語ったと言う。

(当時外務大臣であった重光葵氏が、1956年9月2日、ニューヨークでマッカーサー元帥を尋ねたときの談話による。)

 他にも、「一言も助けてくれと言わない天皇に、マッカーサーも驚いた。彼の人間常識では計算されない奥深いものを感じたのだ」〈中山正男氏、日本秘録98項〉

「この第一回会見が済んでから、元帥に会ったところ、陛下ほど自然そのままの純真な、善良な方を見た事がない。

実に立派なお人柄である」と言って陛下との会見を非常に喜んでいた」〈吉田茂、回想十年〉などの記録がある。 



これを読んでいると天皇と安保条約と裏表の関係にあることが判るようだ。 さらには第二次大戦での指導者の徹底抗戦に突入していった日本国家の

究極の破滅的状況に至ったこととも関係しているのではないかと憶測したりしている。

アメリカが天皇を大いに政治的に利用してきた様子もくみてとれるような気がする。

古代から歴史的に天皇は政治的に利用されてきた存在で,戦争に明け暮れた日本だったように思える。

いつの時代でも弱い庶民がその被害者の立場に置かされ続けてきていた。




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