随想
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12月について
月一回の随想となると月遅れの出来事を書くことにもなる。書いてる現在が1月なので,どうしても12月の出来事と1月が混同してしまう。
12月は完全に寒い冬となり師走の慌ただしさが漂う。買い物に出かけても館内は人が一杯で混雑している
寒いから外出する機会が少なく家庭に閉じこもり勝ちでいる。
良い天気の日を選んで外出するが,出来るだけ人が多く集まる所は避けるようにしている。
夏が暑かったので余計に寒さがこたえるようだ。
世界的な景気は一向に良くなりそうな気配が見られない。中国 とか新興国の景気は良いようには報道されている。
現在の世界の中で大規模な戦争状態になっている所が無いことだけでも,大変幸せなことだと喜んでいる。
ある講演会で聞いた話の中で心に響いて残ったこととして「他人の痛みは3年になろうとも辛抱できる」という言葉である。
以前触れたこともあるが有る宗教家が「冬暮れや 地球の痛み 我が痛み」という話が,現実をもって実感してくる
他人の痛みならば何年経とうとも辛抱し耐えることは可能なのである。
だがそれが自分自身の痛みとなれば少しの時でも我慢できず,悲鳴を上げ一刻も早く助けて欲しいと言うことになる。
なんとか早く痛みから助かりたい一心で,痛みから早く救って欲しいと願うこととなる。
自分のことしての痛みはなかなかに我慢できないものだ。
戦時・戦後の世の中を体験して来た一人として「耐え難きを耐え 忍びがき忍んで」(動画),それでもって当時生活していた。
その前は「ほしが゜りません勝つまでは(動画)」と教えられ,「打ちてし止まん 鬼畜米英」と徹底的な教育を受けきたものである。
当時そのように説いていたような人たちはどのような生活をしていたのだろうかと想像する。
現在,アメリカ一辺倒で,民主国家であるアメリカに従っていれば間違いないとの風潮があり戦後の長い期間が経過しているが変わらない。
自民党時代は首相が変わるたびにアメリカ詣があった。現在は完全なアメリカの管理下にあるようだ(保護国 日米同盟)。
基地反対に対する日本人の国民投票があれば成立すると思うのたが。政治家は誰もがやろうとは提案しない。
アメリカは北朝鮮を存在しておくことが日本を保護するのに便利だから維持しているとの説もある。
現在の政治家達はまず自分達の痛みを回避しつつ それから後に国民の痛み即ち生活向上をさせようとしている感じがする。
小沢さんは身内の政治家達を自分の家に集め,恒例の新年会が催されたとの報道がある。
これは権力並びにそれに伴って来る金力を奪取することが目的でもって気勢をあげているようにしか映らない。
人間はお金に対し弱い,その上に人情や義理に訴えながら票を獲得する,古い悪い政治手法を徹底しているようだ。
全体の国民の為に努力しようとする姿勢は伝わって来ない。
この悪い習慣は田中角栄以来の自民党的古い体質を引きずっているだけのことである。
現在の政治で相手を批判するだけではなく,このようにやれば良いとの具体的提案での建設的討論でもって相手を攻めることが求められる。
現在の国会討論は相手を攻撃するだけで,こうすれば良いとの提案がない。二大政党の政権交代の良さが発揮がなされていない。
政権交代あるも政 官 財の癒着だけが異様に目にとまる。
それへの浄化の努力しようとの姿勢は伝わるが,成果はあがってこない。アメリカでは新しい流れと思われる「ティパーティ」運動が
新しい市民運動かのように保守政力に力をつけているようだ。
世界連邦が理想だが国際連合が存在している。
大国が利用し易いから現在の国連総長潘基文が次期国連総長も努めそうな気配である。これでは世界はいつまで経っても良くなりそうもない。
皆が痛みを分かち合う気持ちがあるならば少しでも世界から痛みはなくなるはずなのだが。
ああ紅の血は燃ゆる(動画)
昨今、炭火を見ることはそうない
平成22年12月1日の天声人語よりの引用
東京あたりでも秋の後ろ姿が小さく霞(かす)み、はや師走である。
昭和天皇の侍従長を長く務めた入江相政(すけまさ)さんが、冬に思い浮かべる香りを随筆に残している。
招き入れられた茶室の、ほのかな炭火のにおいだという
▼入江さんにとって、炭火は夜の書斎のにおいでもあった。
学生時代や、終戦後の窮乏期の記憶である。
〈敗れ果てた日本にも、まだこれだけの贅沢(ぜいたく)は許されていると思った…
…ここにはまだ「日本」というものが、豊かに息づいているじゃあないかと、思った〉
▼昨今、炭火を見ることはそうない。
見かけても、上で音を立てているのは鰻(うなぎ)だったり手羽先だったり。
いにしえの日本を連れて来るべき微香は、食欲をそそる薫煙のかなた、ようとしてうかがえない
▼煙突や暖炉を据えにくい木造家屋は、煙を出さず火力が長持ちする炭を求め、火鉢と七輪の暮らしが生まれた。
こうして居間や台所を支えてきた炭も、もはや日常からは遠い。
炭焼きは師弟で継ぐ職人技になった
▼先ごろの本紙で、杉浦銀治さん(85)が紹介された。
農林省で炭の研究に励み、今も内外で炭焼きを教えている。
杉浦さん編の児童書『火と炭の絵本』に、「炭を通して、火の大切さ、森の大切さがみえてくるんじゃないかな」とある
▼電気やガスは便利だが、代わりに炭や薪(まき)が廃れ、用済みの雑木林が消え、里山が荒れる。
〈豊かに息づく日本〉の衰微を見るにつけ、去来するのは入江さんが使った贅沢なる一語だ。
自然と響き合うまほろばの原風景に思いを致すなら、深々(しんしん)と冷え込む夜半がいい。
子供の頃の暖房は火鉢にある炭火だけだった。寒かった。炭は貴重品のようだ。
戦後石油ストーブに始まり最近では電気による冷暖房機で何処の家庭にも
普及してきている。それだけでは足りないので電気ストーブもつけている。
米国の外交公電が大量に流出し、
内部告発サイト「ウィキリークス」によって世界にさらされ始めた
平成22年12月2日の天声人語よりの引用
彫刻家の自負にあふれた名言がある。
〈大理石の中に天使が見えたので、自由にしてやろうと彫り続けた〉。
ミケランジェロの言葉という。
ルネサンスの巨匠には、「ここから出して」という細い叫びが聞こえていたに違いない
▼天使を、機密に置き換えてみよう。
国家や企業という巨石に閉じ込められた情報を自由にするには、ノミでコツコツやるまでもない。
内側からの一撃で石は砕け、天使は飛び去る。
そして戻らない
▼米国の外交公電が大量に流出し、内部告発サイト「ウィキリークス」によって世界にさらされ始めた。
天使の乱舞である。
韓国高官が「北朝鮮は総書記の死後2、3年で崩壊するだろう」と語ったことなどが暴露され、米政府は憤まんやるかたない
▼かたや、「仏大統領は裸の王様」「伊首相は軽率」といった人物評にさしたる意味はない。
互いに気まずくなるだけのことだ。
一外交官の一考察は、外交という「総合芸術」のひと筆、それも下書き程度のものだろう
▼問われるべきは、玉石の情報が乱雑に漏れ、瞬時に広がる現実である。
このサイトが名をはせたのは、在イラク米軍による無差別殺傷の動画だった。
広く正義に資するものは歓迎だが、世の中、解き放つべきエンゼルばかりではない
▼砕けた石から現れたのは、権力の非を暴く天使か、無法者を利する悪魔か。
こうした流出が続くなら、真偽を含め、情報を冷静に見極める力がいよいよ求められる。
メディアの真価が問われよう。
無論、外から巨石をうがつ努力も怠れないと、肝に銘じたい。
当時の為政者の行為が後に暴露することがる。それでは遅すぎるのではないか。
安保条約に日本への核持込の密約が交わされたことが最近発覚している。
これではいけない。「ウィキリークスで暴いて欲しかった一つて有る。
歌舞伎俳優の市川海老蔵さん(32)が、
飲み明かした末に殴られ、顔に大けがをした
平成22年12月3日の天声人語よりの引用
この時節、深酒した店の手洗いで、何をやってるんだと我に返ることがある。
鏡の顔は赤くふやけてスキだらけ。
懲りないやつと突き放してはみるが、どこをどう見ても自分の面である
▼歌舞伎俳優の市川海老蔵さん(32)が、飲み明かした末に殴られ、顔に大けがをした。
〈いい酒は朝が知っている〉という広告がある。
手術を終え、大いに我に返っている頃だろう。
顔が命の役者、それも見目と美声で売る人気者だ。
成田屋相伝のにらみなど、芸に障らぬよう祈りたい
▼海老蔵さんならずとも、顔は印象を左右する。
本紙「be」の読者調査では、7割近くが「男性の容姿は重要」と答えた。
モテるかどうかだけでなく、就職や仕事でも見た目が物を言うと、多くが考えている
▼古来、見かけをとやかく言われるのは男より女だった。
現に、顔に傷が残る労働災害では、女性がより手厚く補償されてきた。
「女性のほうが外見に高い関心を持ち、傷による不利益や精神的苦痛が大きい」(厚労省)との理屈である
▼ところが今年、風向きが変わった。
金属を溶かす作業で顔をやけどした男性が、補償の男女差は憲法違反だと訴え、認められたためだ。
心の痛みに性差はないとする判決を受け、国は労災保険法の見直しを急ぐ
▼もちろん、無傷ならいいというものではない。
お年寄りの顔に趣があるのは、越えた労苦や納めた悲哀が刻まれるからだろう。
深手はともかく、心身のささくれ、まんざらでもない。
誰に見せるでも、花道をゆくわけでもないけれど、いい顔で齢(よわい)を重ねたい。
どうも酒癖の悪い人のようだ。相手は暴力団 乃至は暴走族とも言われている。
そのような人たちと交際あるのは芸能人としてはしかたないことなのか。
確かに会見を見ていると左目が内出血して赤くなり言葉を一つ一つかみしめ話しているのが印象的。
公立小中学校の過半に給食費の滞納があり、
昨年度の滞納額は推定26億円という。
平成22年12月4日の天声人語よりの引用
〈前日仕込み一切なし、いつも子供たちの顔を見てから大根切ってるからね。
今日は子供たち頑張ってるから、いっちょうやるかってのもあるしね。
愛情が違うよ、愛情が〉。
『ぼくらの学校給食』(給食当番OB会編)にある給食おばさんの言葉は優しい
▼その愛も、食べる側に負い目があっては届くまい。
公立小中学校の過半に給食費の滞納があり、昨年度の滞納額は推定26億円という。
保護者の責任感が足りない、つまり払えるのに払わないが53%、払いたくても払えないが44%である
▼月5千円ほどの給食費。
困窮世帯には全額補助もあるから、「払えない」親の多くはわが子の昼飯より大切なものに費やしているらしい。
滞納分は他の親がかぶる。
ズルやサボリを封じるには、子ども手当からもらうのが早い
▼折しも来春から、3歳未満の子ども手当が月7千円増え2万円となることが決まった。
2450億円の財源は未定だ。
国を挙げての子育てというなら、まっすぐに効く保育所づくりや、給食費の無料化に回せぬものか
▼家計という丼を通り過ぎるお金に、色分けはない。
生活保護費を遊興に注ぐ者がいるように、子ども手当が大人手当に化ける家もある。
財政難の下、親の善意を信じての増額はどうも釈然としない
▼3年前、子どもの7人に1人が貧困下にあった。
今はより深刻だろう。
どの子にも腹いっぱい食べさせ、しっかり学んでもらうのは国の責任でもあるが、
父母が教育に向き合っていることが大前提。
この日本、ふざけた大人を税金で養う余裕はない。
我々が中学時代では,給食は小学校だけ有って中学校では無かった。
お粥を主食にしていた時代で弁当には大変だった。
現在これだけコンビニが発達し弁当を買い易い時代に止めても良いのではないのか。
宇宙に知的生命のいそうな星がたしか全宇宙でざっと1万個ほどと教わった
我々のいる銀河系だけで太陽のような恒星が2千億はある。
そうした銀河が宇宙に約1千億という。
平成22年12月5日の天声人語よりの引用
方程式にも色々あるが、「ドレーク方程式」というのをご存じだろうか。
宇宙に知的生命のいそうな星がどれだけあるかを求める式で、カリフォルニア大教授だったドレーク氏が若いときに考えた
▼計算次第で幅が出るが、昔記事にしたとき、たしか全宇宙でざっと1万個ほどと教わった。
結構あるな、などと思うなかれ。
我々のいる銀河系だけで太陽のような恒星が2千億はある。
そうした銀河が宇宙に約1千億という。
大海で針一本を捜すようなもの、と言っても言い足りない
▼そんな奇跡でも起きたかと、米航空宇宙局(NASA)の「重大発表」を待った人もいたようだ。
なにせ「宇宙生物学上の発見について」と題されていた。会見の前から「異星人の可能性」を報じた米国のテレビ局もあった
▼ふたを開けると、猛毒のヒ素を食べる細菌の発見だった。
米国の湖で見つかった。
なーんだ、と思うなかれ。
生命に必須のリンの代わりにヒ素を食べる。
それは「生命には水が必須」といった常識も覆しかねない発見なのだそうだ
▼つまり生命には、これまでの想定をはるかに超える柔軟性があるかもしれない。
過酷な環境の星にも我々と異なるタイプの生命が存在する可能性がある、ということになるらしい
▼人類が「独りぼっち」ではない可能性が増したことになろうか。
とともに、我々は何者か、という問いも深まりゆくように思われる。
〈異星にも下着といふはあるらむかあるらめ文化の精髄なれば〉山田富士郎。
パンツをはいたサルとして、夜空を仰いで思い巡らす。
空間的に宇宙は無限に近い状態で 人間はたかが100年も生きられない無限の時間軸にいる存在である。
今年はニューヨークの庶民の哀歓を描いた
作家O・ヘンリーが没して100年だったのを思い出した
残した短編は約280
平成22年12月6日の天声人語よりの引用
世界に数あるクリスマスツリーのうち、一番有名なのはニューヨークのロックフェラーセンターのそれだろうか。
今年は高さ22メートルの木が設(しつら)えられ、恒例の点灯式を日本の新聞、テレビもこぞって報じていた
▼ニュースを眺めながら、今年はニューヨークの庶民の哀歓を描いた作家O・ヘンリーが没して100年だったのを思い出した。
残した短編は約280。
何と言っても、木枯らしの吹く晩秋から年の瀬の物語がひときわ名高い
▼最も知られているだろう「最後の一葉」。
クリスマスイブの「賢者の贈りもの」。
路上生活者に冬が迫る「警官と賛美歌」など、繁栄からこぼれ落ちる人へのまなざしは、優しくほろ苦い。
冬の夜のともしびのような珠玉の名品たちである
▼結末には十八番(おはこ)のどんでん返しがある。
そうした通俗性や感傷ゆえに、小説は愛されつつも、文学的にはやや軽んじられてきたと聞く。
作者と作品がどこか登場人物に重なり合うのは、いわゆる権威との距離のせいでもあろう
▼この季節、摩天楼の街に吹く風は冷たい。
ここにきて米国内の失業率はまた厳しいと伝わる。
「街角にころがっている何か」を常に探し求めたという小説家なら、この不況の時代にどんな短編をつづることだろう
▼〈人生は「むせび泣き」と「すすり泣き」と「ほほえみ」とで成り立っていて……〉は、「賢者の贈りもの」の知られた一節だ。
すすり泣きが一番多いと作者は言うが、ここはほほえみに加勢したい。
日本の師走も冷たいけれど、津々浦々で笑みある物語が紡がれればいい。
オ-ヘンリーの作品は心温まるお話が多い。
「さあ政権交代だ」の呼び込みに胸を躍らせ、
千客が木戸をくぐって1年あまり
私たちが見せられたのは、国政の後ずさりだった
平成22年12月7日の天声人語よりの引用
見せ物小屋は万事おおらかだった。
〈目が三つ、大きな歯が二枚の化け物〉を恐る恐るのぞくと、ただのゲタ。
「さあ大イタチだ」の声に負けて入れば、紅を流した板が飾られている。
「板血」である。
お客も「うまいこと考えたな」と寛大だった。
『明治のおもかげ』=鶯亭金升(おうてい・きんしょう)著=から
▼「さあ政権交代だ」の呼び込みに胸を躍らせ、千客が木戸をくぐって1年あまり。
私たちが見せられたのは、国政の後ずさりだった。
「これがホントの政権後退」と言われ、笑って許す有権者はいまい
▼菅内閣も明日で半年になる。
普天間、政治とカネの負の遺産に、参院選大敗、党を二分しての代表選、閣僚の失言が重なり、自壊の道をゆく。
「一兵卒」さえ国会に呼び出せない体たらくだ
▼尖閣諸島や朝鮮半島で国益や安保絡みの凶事があるたび、政権は内外に覚悟を示すどころか、右往左往している。
総じて、自民党の病巣を残して去勢した印象である。
景気に財政、雇用や福祉にも吉兆は乏しい
▼菅さんは「忙しすぎて私の発信が不十分だった」と省みた。
多忙を恨んではいけない。
就任わずか半年、リーダーシップを見せつけるチャンスにこれほど恵まれた首相を知らない。
なのに見逃し三振ばかり。
せめて振ってくれないと
▼「さっぱり」な政権への評価は、「がっかり」と「やっぱり」が半々か。
縁日の小屋ならば、看板に偽りありも「また担がれた」で済むが、国政の桟敷(さじき)を包むのは「金返せ」の怒号だ。
世の流れの速さ、国を洗う大波を思えば、「時を返せ」かもしれない。
政権交代後の政権で政治家家系でない首相としては評価するが,評判がわるいのはマスコミによるものか
叉は世界の情勢が悪いのか,独自の路線を開拓して欲しい。
政治屋になってもらいたくはない。戦争 靖国神社とは縁がなさそうに見えるが。
歌手のクミコさん(56)にお会いした。
暮れのNHK紅白歌合戦で「INORI」を歌う
平成22年12月8日の天声人語よりの引用
歌手のクミコさん(56)にお会いした。
暮れのNHK紅白歌合戦で「INORI」を歌う。
広島市の平和記念公園に立つ原爆の子の像。
そのモデルとなった佐々木禎子(さだこ)さんを悼み、静かに平和を訴える曲だ
▼禎子さんは2歳で被爆、10年後に白血病で亡くなった。
回復を念じて鶴を折り続けた話は広く知られる。
「彼女の短い人生を借りて、戦没者の無数の思いを伝えたい。
歌い手の使命を感じます」。
納めの舞台、音符の一つ一つで鶴を折り、世界へ、天へと飛ばす
▼69年前のきょう、日本は太平洋戦争に突入した。
真珠湾から広島、長崎に至る44カ月、日本人だけでも300余万の命が失われ、被爆者の苦痛は今も続いている。
どこかで戻る道はなかったかと、今さらながら思う
▼陸軍は米英と戦う決意を夏に固め、陸相の東条英機が首相になると開戦内閣だと喜んだ。
海軍も覚悟を決める。
「戦うも亡国かもしれぬが、戦わずしての亡国は魂までも喪失する永久の亡国である」(永野修身(おさ・み)軍令部総長)
▼民のあずかり知らない「亡国覚悟」の戦いに、新聞や知識人も加担した。
内外に息苦しさが募る日本に、今また勇ましい言説が飛び交う。
いつか来た道にはさせないと、改めて折り鶴の少女に誓いたい
▼本日はジョン・レノン暗殺から30年でもある。
〈皆が新しいテレビの代わりに平和を求めれば、それはなる〉の至言を思う。
戦争も平和も、つまりは人の意思である。
皆がテレビを買い替えた年、同じ力強さで平和の輪が広がるよう祈りながら、除夜の熱唱に聴き入るとする。
祈り クミコ(動画)
トイレのか神様 植村花菜(動画)
市川海老蔵さん(33)が、慣れ親しんだ新之助から
今の名になったのは26歳の時だった
派手に飲み歩き、時に酒にのまれる素行と評判は
歌舞伎の大名跡に何ともそぐわない
平成22年12月9日の天声人語よりの引用
ルイ・ヴィトンのバッグに、子猫ほどのぬいぐるみを二つぶら下げた女性を見かけた。
通勤電車でのことだ。
使い込まれた飾り物は、通学かばん時代からのお友だちなのだろう。
ブランド物を買える年頃になっても別れがたいとみえる
▼個人の趣味に難癖をつけるつもりはないが、持ち物は持ち主を語るともいう。
バランスを欠いた装いは、早晩おかしさに気づくか、笑われるかして改まることが多い。
大人になるとはそういうことだ
▼市川海老蔵さん(33)が、慣れ親しんだ新之助から今の名になったのは26歳の時だった。
派手に飲み歩き、時に酒にのまれる素行と評判は、歌舞伎の大名跡に何ともそぐわない。
その似合わない「ぬいぐるみ」を、この人は最近までぶら下げていた
▼泥酔の末に殴られ、商売道具の顔を手術した海老蔵さんが、約500人の報道陣を前に無期限の公演見合わせを発表した。
おわびと反省の言葉を神妙につなぎ、「当分、お酒を飲む気にはならないと思います」と、不似合いの元を断つそぶりも見せた
▼6年前、パリで襲名披露するご本人を間近で見た。
華のある舞台や仏語での口上もさることながら、人々が何より感嘆したのは役者本人の色気だ。
祝宴の海老蔵さんは、ほんのり桜に染まり、湯気が立つような美しさである。
「高級ブランド」ならではの輝きだった
▼伝統芸能の担い手が大きくなるための、遅めのステップならば謹慎も無駄ではない。
妻麻央さんに諭されたという「心の勉強」を重ね、荒々しく戻ってきてほしい。
夜の街へではない。
海老蔵 会見(動画)
海老蔵さんの一件は「殴顔無値(おうがんむち)」か
「親系酔弱(しんけいすいじゃく)」か
以下、住友生命が募った年末恒例の
「創作四字熟語」で今年を顧みる
平成22年12月10日の天声人語よりの引用
ウィキリークスにやられた米政府が「公電泥棒」と叫んだかどうかはさておき、たいていのことは漢字四つで表せる。
海老蔵さんの一件は「殴顔無値(おうがんむち)」か「親系酔弱(しんけいすいじゃく)」か。
以下、住友生命が募った年末恒例の「創作四字熟語」で今年を顧みる
▼まずは森羅万象のはやり物。「
辛辣万食(しんらーばんしょく)」とばかりに食卓を席巻したのは食べるラー油。
見渡すかぎり萌(も)え萌えの秋葉原で輝いた「四萌八萌(しほうはっぽう)」はAKB48。
呟(つぶや)きを飛ばすツイッターは「流呟飛語(りゅうげんひご)」とまとめられた
▼龍馬ブームは紀貫之にあやかって「土佐人気」。
500メートルを超えた東京スカイツリーは、早くも「全人見塔(みとう)」の観光地になった。
映像の奥行き、飛び出し、臨場感の三位一体で売る「三見(さんみ)立体」の3Dテレビも評判に
▼グアム行きの構想は奇想天外だったのか。
普天間放置の「棄想県外」に沖縄県民の怒りは募る。
中国漁船が体当たりしてくる「船嚇(せんかく)諸島」の事件は検察も巻き込んだ。
特捜には期待したいが、事件を作る「独創検事」は困る
▼畜産宮崎を襲った口蹄疫(こうていえき)で29万頭の牛豚が処分された、ああ「諸牛(しょぎゅう)無情」。
古色蒼然(そうぜん)のお役所仕事で「戸籍騒然」、所在不明の超高齢者が後を絶たない。
花鳥風月も泣く「夏長秋欠(かちょうしゅうけつ)」の猛暑に、八百屋の店頭は「市場菜高(さいこう)」。
腹ぺこの野生動物が街をうろつく「群熊闊歩(ぐんゆうかっぽ)」も
▼バンクーバーは「遠金(とおきん)五輪」だったが、南アフリカのW杯は盛り上がった。
「芝地(ピッチ)団結」の日本代表に、われら「不眠蹴球」。
過労か寿命か、勝敗を当てまくって昇天した「百発蛸中(たこちゅう)」のパウル君も忘れがたし。
住友生命の創作四字
老夫婦を殺害したとして、鹿児島地裁で死刑を求刑された
男性(71)に無罪判決が出た
被告は否認しており、裁判員は究極の選択を迫られた
平成22年12月11日の天声人語よりの引用
ピアニストの腕前を測る鍵の一つは小さな音だという。
調律師の高木裕(ゆう)さんが、近著『調律師、至高の音をつくる』(朝日新書)で明かしている。
最大音量は物理的に決まるので、「美しく、粒のそろった小さい音」こそが表現の幅を広げるそうだ
▼「小さな音」を大切に扱うこまやかさは裁判にも要る。
丹念に証拠を調べ、証言の真偽を見極める。
人の命がかかるとなれば、なおさらピアニッシモの指さばきが求められよう
▼老夫婦を殺害したとして、鹿児島地裁で死刑を求刑された男性(71)に無罪判決が出た。
被告は否認しており、裁判員は究極の選択を迫られた。
40日に及ぶ長丁場の結論は、「この程度の状況証拠では犯人と認められない」。
小さな音を紡いでの終演だろう
▼片や、鍵盤を無造作に殴るような裁きで、心ある人たちの耳をふさがせているのが中国だ。
獄中でノーベル平和賞を受けた劉暁波氏(54)のように、民主化を求める人々を見張り、行動を起こせば牢につなぐ
▼オスロでの授賞式に、出国を許されなかった親族や国内支援者の姿はなかった。
「内政干渉だ」と反発する中国政府は各国に働きかけ、17カ国が欠席した。
「空席」が中国のおかしさを語る、なかなかの逆宣伝である
▼授賞の理由で、投獄の口実にもなった「08憲章」の発表から折しも2年。
天安門世代を中心に、民主化運動を担う面々が同窓会のように北国に集まった。
一人ひとりの声は小さくても、獄中のタクトが大合唱に導く。
北京の拡声機が流す、調子外れの大音響に負けてはならない。
死刑を求刑された人が無罪に裁判員制度の不備なのかどうか
中国では普通の国では罪にならない人がノーベル平和賞をもらい
牢獄につながられている。 人間の世界には「絶対間違いない」が無い
金星軌道に入り損なった探査機「あかつき」も、
その困難に跳ね返されたといえる。
成功の栄誉と失敗のリスクは、当然ながら正比例する
かけた費用は250億円巨額を無駄にしたのか
平成22年12月12日の天声人語よりの引用
ヒマラヤの未踏峰だったマナスル(8163メートル)には日本人が世界で初めて登頂した。
8千メートル峰をめざす計画は、戦後まもなく今西錦司氏ら京大グループが着手した。
目標を決めるのに若手が資料を集めた
▼マナスルは資料がなかった。
写真もなく、山の形さえわからない。
だが今西はマナスルを選ぶ。
若手らが「この山は何もわからへんのに。
あきませんよ」と驚くと、こう言ったそうだ。「わからへんから、やるんや」
▼伝説ともいえる逸話は、登山に限らず「開拓者魂」というものをよく表していよう。
とはいえ未知の領域を手探りで進む難路は並ではない。
金星軌道に入り損なった探査機「あかつき」も、その困難に跳ね返されたといえる。
成功の栄誉と失敗のリスクは、当然ながら正比例する
▼かけた費用は250億円。巨額を無駄にしたのか、せめて将来への糧にできるのかは、今後の宇宙航空研究開発機構しだいとなろう。
国の台所がきしむ時代、この手の予算は微妙な世論の背中に乗っている
▼ずいぶん前になるが、ねむの木学園の宮城まり子さんにこんな話を聞いた。
「ロケット打ち上げに失敗した時、記者さんから電話があったの。
『膨大な浪費をするなら福祉に使って』と談話を取りたかったらしいのよ。
私が『チャレンジに失敗はつきもの。冒険心を無くさないで』って言ったら、その人、困っちゃって」
▼台所は厳しいが、開拓者魂への応援旗は掲げ続けたい。
太陽系大航海がうたわれる時代。
長い目を持たずには見えないものが、あるに違いない。
250億円とは大変な金額である。科学の発明 発見には大変な巨費がいるものだ。戦争する費用のことを考えれば
大した金額ではないし人類の進歩 発展には是非とも欠かせないものである。
人殺しの武器の研究よりは遙かに人類に役にたつことだ。
「今までは仮免許だったが、いよいよ本免許
菅直人らしさを出していきたい」。
支持者の会合で首相が語ったそうだ
平成22年12月14日の天声人語よりの引用
〈はらはらと黄の冬ばらの崩れ去るかりそめならぬことの如(ごと)くに〉。
窪田空穂(うつぼ)は花の末期を美しく詠んだ。
その時限りを表す「仮初(かりそめ)」は趣のある言葉だ。
仮初人(びと)、仮初の恋……。
しかし仮初の権力は危ない。
素人が振り回すと民が迷惑する
▼「今までは仮免許だったが、いよいよ本免許。
菅直人らしさを出していきたい」。
支持者の会合で首相が語ったそうだ。
では、仮初の一票と仮初の税金を返してくれ、と言いたい人も多かろう
▼半年とはいえ、仮免に日本の針路を任せていたかと思うと空恐ろしい。
教習中でも、大型ダンプや暴走車に出合う。
東アジアの情勢が緊迫するなか、また、民主党らしさが問われる予算作りを前に、のんきなことを言うものではない
▼仮免には急ブレーキが付き物というわけで、本紙の世論調査で菅内閣の支持率が21%まで落ちた。
地方選挙は負けが続き、おとといの茨城県議選では候補者の4分の3が落選の憂き目を見た。
そこに執行部が望んだかのような、党内抗争の再燃である
▼小沢元代表に国会で説明を求めるかどうかで、分裂含みの緊張が高まってきた。
もともと「脱小沢」「親小沢」その他の寄り合い所帯。
何両かが連なり、きしみ合う特殊車両を操るには、なるほど仮免では荷が重い
▼仮という字には、間に合わせ、偽物の意味がある。
政権交代後の混迷は、本物の政治が根づくまでの仮の姿と思いたい。
とても時宜ではないのだが、大政党の液状化が避けられないのなら早く溶け、
さっさとあるべき姿に固まり直してもらうしかない。
政治家の言葉は軽々しくはなすものではない。本人は軽い気持ちだろうが,国民にとっては大変に重い。
重責にある人ほど慎重に行動して言葉には注意する必要がある。
何も話さなければ良いと言うものでもない。責任を自覚すべきである。
いつものように混んだ通勤電車で立っていると、
隣に立つ小学生がおなかを見つめている
大きな駅で大勢が降りた時、少年は空いた席に走り、
ランドセルを置いて戻ってきたそうだ
「こちらに座って下さい」
平成22年12月15日の天声人語よりの引用
だめな政治や、困った隣国をぼやくことが多いせいか、心がほっこりする話も読みたいというご意見をいただく。
うなずくしかない。
寒々しい世相ゆえ、湯たんぽみたいな話には書き手も救われる
▼東京の声欄に「席とってくれた優しい少年」が載った。
投稿者(30)は妊娠6カ月。
いつものように混んだ通勤電車で立っていると、隣に立つ小学生がおなかを見つめている。
大きな駅で大勢が降りた時、少年は空いた席に走り、ランドセルを置いて戻ってきたそうだ
。「こちらに座って下さい」
▼「エスコートされるままに乗客の間をすり抜け、空席に座りました。
温かい気持ちで胸が詰まり、とっさに言えたのはありがとうの一言だけ」。
気恥ずかしいのか、その子はすぐに離れたという
▼声欄では先頃、「妊娠マーク」を振りかざすような女性に65歳の男性が苦言を寄せた。
「善意を軽く見ないで」と。
これには妊婦さんらが「温かく見守って」と異を唱えた。
読めばどちらも納得できるが、車内の緊張やイライラは小さな気遣いで大団円にできると、少年の好意が教えている
▼おなかの赤ちゃんにまず備わるのは聴覚だという。
妊娠中期から母の声、次いで外の音が聞こえ始めるらしい。
誕生前から、お母さんと一緒にたくさんの「ありがとう」を聞ける子は幸せだ
▼おなかの大きい人を見かけることは少なくなった。
日本の将来のためにも、妊婦には心安らぐ日々を、生まれくる命には健やかに育ちうる世の中を贈りたいものだ。
それでまた、小欄は懲りずにぼやくことになる。
思いやりのあるこんな少年もいるものだ。簡単に出来そうでもなかなかできないものではない。
何かを伝える前には言葉を選ぶ作業がある
適切な表現にたどりつくには、意味と語感の二つの道があるという
平成22年12月16日の天声人語よりの引用
日本語の「わんわん」と「にゃあ」は、海を渡ると「バウワウ」「ミュウ」になる。
母語にどっぷりつかっていると、犬や猫の鳴き声は画一的になりがちだ。
実際には一匹として同じ声はないし、聞こえ方も人それぞれだろう
▼谷川俊太郎さんに「おならうた」という愉快な詩がある。
〈いもくって ぶ/くりくって ぼ/すかして へ/ごめんよ ば/おふろで ぽ/こっそり す/あわてて ぷ/ふたりで ぴょ〉。
豊かな「音色」は、詩人が母語の常識から解き放たれ、心の耳で遊んだ産物だ
▼擬音語に限らず、何かを伝える前には言葉を選ぶ作業がある。
とりわけプロポーズや面接のような勝負時、私たちは知る限りの言い回しから、思いと常識が折り合う言葉を絞り込む
▼適切な表現にたどりつくには、意味と語感の二つの道があるという。
意味には字引という案内人がいるが、語感には道しるべもなかった。
近刊『日本語 語感の辞典』(岩波書店)の著者中村明さんが、先頃の読書面で出版を思い立った理由をそのように語っていた
▼「言葉を選ぶ時に多くの表現が思い浮かぶのは、ものの見方が細やかということです。
ものの見方を磨かないと、表現は増えません」。
中村さんの指摘は、言葉を生業(なりわい)とする者すべてに重い
▼己の仕事は棚に上げて、政治家の「語勘」を問いたい。
弁舌のプロらしからぬ「暴力装置」「仮免許」「甘受」。思いが口をついたにせよ、いくらでも言いようがあった。
これしきの語感力では、誰のどのおならも〈ぶ〉でしかない。磨くべし。
言葉が人を傷をつけもし 癒す事もあり 元気づけることもある。
慎重に言葉は発したいものだ。
集積に有る人ほどに慎重であってほしいものである。
絶滅したはずのクニマスが、山梨県の西湖(さいこ)で生き延びていた
平成22年12月17日の天声人語よりの引用
山奥に分け入った猟師、谷川を流れ来る塗り物を見つけ、まだ奥に人の営みがあったかと驚く
。隠れ里の伝えである。
平家の落人がひっそり暮らしていたといった話は各地にある。
そんな伝説が魚の写真に重なった
▼絶滅したはずのクニマスが、山梨県の西湖(さいこ)で生き延びていた。
秋田県の田沢湖だけにいた魚は、70年前の導水工事と酸性化で死に絶えた。
工事の5年前、西湖などに卵を放流した記録が残っており、難を逃れた一族が富士の懐でひそかに血をつないでいたらしい
▼魚類に詳しい人気者、さかなクンのお手柄だという。
旧知の京大教授からクニマスのイラストを頼まれ、参考用に集めたヒメマスに奇跡が紛れていた。
類は友を呼ぶ、である。
人の都合で葬られた魚の「再発見」に、少しばかり救われた
▼絶滅の恐れがある動植物を網羅したレッドリストは、いつも悲しい方向に改訂されてきた。
明治末に絶えたニホンオオカミなど、剥製(はくせい)や標本があればいいほうで、多くが何も残さずに消えている
▼永遠の美を欲し、村娘が竜と化す田沢湖の辰子姫(たつこひめ)伝説。
変わり果てた姿を嘆き、母親が湖面に投げつけた松明(たいまつ)は魚になる。
なぜこの湖だけなのか、素性がはっきりしないクニマスにふさわしい伝承である
▼地元の直木賞作家、千葉治平(じへい)さんは生前、「北海道に放流してやれば深湖魚として生き残ったかもしれない」と、その絶滅を惜しんだ。
ご安心を。
松明はどっこい燃え続けている。
人の手で異境に移されたことは、この種に限っては幸いだった。
そのねばりに報いたい。
このニュ-スには少し驚いた。偶然にも他の湖で絶滅したと考えられていた魚が生きていたとは幸運である。
新聞社や通信社による約280点で今年を顧みる報道写真展が、
東京・日本橋の三越本店で始まった(無料、26日まで)。
平成22年12月18日の天声人語よりの引用
東京スカイツリーが、約17キロ隔てたわが家からもしっかり見える高さになった。
昨今の日本では数少ない「順調」の一つである。
東京タワーが高度成長なら、この塔は何のシンボルとして記憶に刻まれようか
▼一部を除く9月23日付の朝刊に〈地上470メートルの競演〉なる写真が載った。
ツリー最上部にかかる中秋の名月である。
上空での建設作業と月の軌跡の一瞬の交差を、600ミリの望遠レンズでとらえた
▼科学記者の計算をもとに選んだ撮影地は、西に4キロ離れた東大校舎の屋上だ。
月はツリーの左下から右上へと夕空を駆け上がり、わずか8秒だが先端に「乗った」。
撮った関口聡カメラマンがいう。
「この秋限りの旬な光景を残せると興奮しました」
▼手前みその一枚を含め、新聞社や通信社による約280点で今年を顧みる報道写真展が、
東京・日本橋の三越本店で始まった(無料、26日まで)。
急ぎ足で会場を回って、政治の沈滞をスポーツと宇宙が埋め合わせた年だと思った
▼首相職を2人でつなぐこと5年連続、もはや奇習である。
永田町の仏頂面に比べて、虹を背にグリーンに立つ石川遼君のすがすがしいことよ。
日食も負けていない。
欠けたまま海に没する「三日月の太陽」を沖縄で収めた
▼開会式に招かれた宇宙飛行士の山崎直子さんが、しばし見入ったパネルがある。
オーストラリアの星空で燃え尽きた「はやぶさ」だ。
「ただいま」の閃光(せんこう)を残して天の川に砕け散る探査機。
地平線に棚引く雲たちが「おかえり」と迎えている。
何度も泣かせる機械である。
報道写真展(動画)
報道写真展(画像)
今月初めには、全国で約23万人の民生委員が一斉に改選された
地域に欠かせぬ見守り役だが、委員自身の高齢化も進む
いわば「老老見守り」の様相なのだという
平成22年12月19日の天声人語よりの引用
今年もそろそろ「数え日」と相成る。
年内も指折り数えるほどになった日々を言い、せわしい気分はいっそう募る。
そしてここ数日、列島は師走の厳しい寒波に包まれた
▼天気予報に連なる北国の雪マークに、今年1月の朝日歌壇の入選作を思い出した。
〈「生きてるよ」そのことだけを知らせんと出口をわずか雪踏みにけり〉。
山形市の大沼武久さんの一首である。
雪深い地では、こうしたご高齢が少なからずおられるのだろうか
▼今月初めには、全国で約23万人の民生委員が一斉に改選された。
地域に欠かせぬ見守り役だが、委員自身の高齢化も進む。
いわば「老老見守り」の様相なのだという。
寒地ならずとも冬は心細い。
お互い、気の抜けない季節に違いない
▼〈齢(よわい)のみ自己新記録冬に入る〉三橋敏雄。
誰しも齢は、日々に自己記録を更新している。
だが冬は年をまたぐだけに実感が伴う。
風邪もはやる。
身構える思いはひとしおとなろう
▼手元の暦を調べると、きょうは中国宋代の大詩人、蘇軾(そしょく)の生まれた日とある。
この人に忘年を意味する「別歳(べっさい)」という一作があって、その一節はなかなか愉快だ。
〈嗟(さ)する勿(なか)れ旧歳(きゅうさい)の別れを……去り去りて回顧する勿れ 君に老(ろう)と衰(すい)とを還(かえ)さん〉
▼行く年よ振り返らずさっさと去れ。
お前に私の老と衰を返すから持って行ってくれ――という意味だ。
ずっと繊細だが、日本にもこんな一句がある。〈九十の端(はした)を忘れ春を待つ〉阿部みどり女。
「春」を初春ととれば、年の瀬にも味わいは深い。
剛と柔の詩句の響きに、どこか励まされる。
民生委員は地域のお世話をする人たちである。家族関係が崩壊しつつある現在にはどうしても身寄りの少ない方の
お世話が益々に必要となってくる。
住民のことで相談に来られる方もおられる。大変な仕事だ。
沖縄戦後史に刻まれるコザの出来事は
40年前のきょう、12月20日未明に起きた
平成22年12月20日の天声人語よりの引用
東京で読んだ本紙夕刊に、沖縄生まれの若い歌人、屋良健一郎さんの歌があった。
「コザ暴動あるいはコザ騒動」と題した連作から一首を引くと、〈モノクロの写真の街は白く燃ゆ コザの暴力美(は)しかりにけむ〉
▼何千人もの群衆が80台を超す米兵らの車両を焼き払った。
沖縄戦後史に刻まれるコザの出来事は40年前のきょう、12月20日未明に起きた。
積もりに積もった怒りの爆発だった。
さらに一首引かせてもらうと、〈植民地(コロニー)の冬夜の空をねじらせて米軍車より直(す)ぐ起(た)つ炎〉
▼時のコザ市長は大山朝常(ちょうじょう)さんだった。
炎をにらみながら、「沖縄の怨念が燃えている」とうめいた言葉が伝説のように伝わる。
晩年にお会いしたとき、「それは米軍の圧政への怨念ですね」と尋ねたことがある
▼すると哀れむような目を向けて黙り込んだ。
沈黙の間に、気づかざるをえなかった。
怨念の炎の中に大山さんが見ていたのは、アメリカではなくて日本(ヤマト)ではなかったか――。
対日講和条約で沖縄は切り捨てられ、きびしい戦後を強いられてきた
▼暴動、騒動、民衆蜂起など、コザの出来事は様々に呼ばれてきた。
「暴動」は日米の側から見た名称であろう。
同じように、沖縄で菅首相が語った「辺野古移設がベター」は、地元にとっては政府の論理に他なるまい
▼屋良さんは東大大学院で、16〜17世紀の薩摩と琉球の関係を研究している。
「今の状況はそれ以来の歴史の凝縮です」と言う。
根ざす所は深い。
40年間に怒りのマグマが減じてはいないことを、ヤマトは知る必要がある
「コザ騒動」から40年(動画)
強制起訴される資金問題を国会で説明しない小沢氏に
業を煮やした菅首相が自ら説得を試みた。
平成22年12月21日の天声人語よりの引用
今年の漢字が「暑」と聞いての反応は、ほぼ「そうそう暑かったよね」だった。
肌の感覚は思い出に早変わりし、明日はもう冬至である。
変調や波乱はあっても季節は巡るのに、とんと回らぬのが民主党だ
▼炎夏の終わり、小欄で何度か「民主の森」の話を書いた。
菅首相を森の主カブトムシに、朽ち木の洞(うろ)からニラミを利かす小沢元代表をオオクワガタに見立ててのメルヘンだ。
秋の代表選はカブトの辛勝に終わり、森は平和裏に団結……かと思いきや、季節外れの虫合戦となった
▼強制起訴される資金問題を国会で説明しない小沢氏に、業を煮やした菅首相が自ら説得を試みた。
カナブンやら何やら、取り巻きを外しての直談判も実らず、小沢氏はあっさり突っぱねた
▼カブトムシはひと夏限りの命だが、オオクワガタは絶滅危惧種の粘りかどうか、軽く越冬する。
小沢氏も、昔ながらの手法を批判されながら何度も冬をしのいできた。
今度もカブトの退場をじっと待つ腹らしい
▼課題山積の中の党内抗争だ。
柚湯(ゆずゆ)と南瓜(かぼちゃ)で無病息災を祈るべき寒天下に、プールで西瓜(すいか)をほおばるかの浮世離れ。
とはいえ、脱小沢×親小沢の対立軸をいっぺん折らねば、日本の政治は前に進むまい。
どうせ戦うならとことん、しかしさっさとお願いする
▼一年で昼が最も短い冬至。ここからは日が長くなる一方ということで、一陽来復の語がある。
すなわち、陰極まって陽戻る。
太陽が元気を盛り返すように国政も、と願わずにはいられない。
熱いならまだしも、政治がのべつ暑苦しいのはつらい。
小沢氏には政治力,政権即ち権力とそれに伴うであろう金力をを扱う術を持つ人である。
お金と政治との関係 それに義理 人情をからませる術に長けて自民党時代からの古い政治ののタイプの人である。
そのような政治からの決別には小沢さんとの対決は避けて通れない。
小沢さんに政治的見識は無いのではなく,余分なことで政治をば混乱させている。
ミニ小沢氏的な人間が日本の全国つづ裏に多くいて,このような悪い政治手法を浸透させ日本を汚染し真の正しい政治が行われない。
こちらの一人旅は34年目に入った
77年秋に打ち上げられた米国の惑星探査機ボイジャー1号である
平成22年12月22日の天声人語よりの引用
孤立と違い、孤独は慣れるものらしい。
1962年、ヨットで太平洋を単独横断した堀江謙一さん(72)が、94日間の冒険の記録『太平洋ひとりぼっち』に書いている
▼嵐と船酔いで迎えた17日目は〈寒さと心配と孤独のため、発狂しそうだ〉。
それが72日目になると〈まわりに人がいないというだけの孤独なら、いつかは我慢できるようになる〉と強い。
〈出てくる前のほうが、よっぽど、ぼくは孤立していた〉と
▼こちらの一人旅は34年目に入った。
77年秋に打ち上げられた米国の惑星探査機ボイジャー1号である。
米航空宇宙局(NASA)によると、今は冥王星の軌道半径の3倍あたりを、秒速17キロで遠ざかっている。
最も遠くに達した人工物だ
▼木星や土星に近づくたびに脚光を浴びた長寿探査機も、口の端に上ることは少ない。
すでに太陽が放つプラズマ流の速度はゼロとなり、4年後には影響圏を完全に脱するそうだ。
帆に風をはらみ、未知の外洋に出る小艇を思う
▼宇宙旅行ができるほどの文明は自ら滅ぶ、との説がある。
だから宇宙人がなかなか地球に来ないのだと。
ボイジャーは知的生命との遭遇に備え、多言語のあいさつや音楽のレコードを積む。
彼方(かなた)の青い惑星に文明があった、いや、あるという証しだ
▼〈冷たい夢に乗り込んで/宇宙(おおぞら)に消えるヴォイジャー〉とユーミンが歌ったのは80年代だった。
人の視界や意識から消えても、その旅に終わりの予定はない。
深い孤独にも、忘れられることにも慣れてはいようが、闇を進む旅人の前途に奇跡あれ、と願う。
他の星に人間と同じような知識を持った生物がいるとする想像すれば恐ろしいと同時にワクワクする。
冬鳥の便りとともに、高病原性鳥インフルエンザが列島に「×印」を散らし始めた
北海道でカモ、島根で鶏、富山と鳥取ではハクチョウの感染が確認された
平成22年12月23日の天声人語よりの引用
朝鮮半島を南北に分かつ非武装地帯は、皮肉なことに、今や世界的な野鳥の楽園だという。
渡り鳥にとっては、翼を休める中継地でもある。
国境の空を飛び交う姿に、民族分断の悲しみはなお募る
▼人工衛星で渡り鳥を追跡してきた樋口広芳さんの著『鳥たちの旅』(日本放送出版協会)によると、
鳥は太陽や星を頼りに目的地に向かうそうだ。
海に落ちる仲間もあり、旅は命がけ。
秋の南下は避寒ではなく、食物を求めての移動らしい
▼冬鳥の便りとともに、高病原性鳥インフルエンザが列島に「×印」を散らし始めた。
北海道でカモ、島根で鶏、富山と鳥取ではハクチョウの感染が確認された。
さらに日本最大のツル越冬地、鹿児島県出水(いずみ)市で、死んだナベヅルの感染がわかった
▼国の特別天然記念物である出水の「万羽鶴」は、ロシアや中国の繁殖地から朝鮮半島を経て家族で飛来し、春先に帰っていく。
鹿児島は日本一の養鶏どころ。
現場の半径10キロ以内にも500万羽が飼われ、ことは地域経済にかかわる
▼渡り鳥に罪はないが、ウイルスという爆弾を抱かされた飛行機に例えることができる。
ひしめく鶏は、爆音におびえる無辜(むこ)の民だ。
どれが爆撃機やら見分けはつかず、一発でも鶏舎に落ちれば大量処分の地獄絵が待つ
▼〈北の大地から/南の空へ/飛び行く鳥よ/自由の使者よ〉。
半島の悲劇を嘆き歌う「イムジン河」の詞にある。
そう、鳥たちの旅に旅券や検疫はない。
ゆえに北からの群れに病が広がろうと、水際で止めるすべはない。
万事ままならぬ天地である。
かぜウイルスとの闘いは毎年繰り返されている。細菌同様に永久的な駆除は出来ないものなのか。
病気は新しく出来るとは思わない。昔からある疾患が新しく発見されるだけと思うのだか。
勿論住む生体の環境の変化により作り出される場合もあるだろうが。
レオナルド・ダビンチの代表作「モナリザ」の目の中に、
微細な文字が書かれていることがわかった
平成22年12月24日の天声人語よりの引用
わが身が没するほどの愛を例えて、目に入れても痛くないという。
砂粒ひとつ受け入れない急所なのに、かわいい子や孫なら中で転がして一体化したい。
そんな思いだろう
▼どんな溺愛(できあい)と同化の痕跡か、レオナルド・ダビンチの代表作「モナリザ」の目の中に、
微細な文字が書かれていることがわかった。
右の目には画家のイニシャルとおぼしき「LV」、左にも「CE」か「B」と読める字が確認された
▼外電によれば、ルーブル美術館に出向いて発見したのはイタリアの文化遺産委員会。
50年前の本に〈モナリザの目は暗号に満ちている〉という記述を見つけ、高度の拡大鏡で調べてみたという。
委員長は「500年前の筆致は不鮮明だが、さらに謎を掘り下げたい」と語る
▼ルネサンスの巨匠は、フランス国王の招きで渡仏した晩年まで、この絵を手元に置いて筆を入れ続けたとされる。
微笑(ほほえ)むモデルは豪商の妻と伝わるが、「女装の自画像」とする説もある
▼天才は科学にも通じていた。
解剖学への興味から目の研究も怠りなく、角膜の表面にたっぷり水をつけると視力を矯正できる、と考えていたらしい。
『人工臓器物語』(筏義人〈いかだ・よしと〉著)にある。
今のコンタクトレンズにつながる発想だ。
眼中に忍ばせたサインは、後世の発明を見越した「特許願」にも見えてくる
▼ダビンチの時代、魔法のルーペがあったとは思えない。
では、肉眼で見えない字をいかにして書き入れたのか。
一部始終を見届けたはずの瞳は、防弾ガラスの向こうから謎めいたまなざしを返すばかりである。
不思議な話しである
-以下インタ-ネットよりの引用ー
イタリア文化遺産協のシルヴァーノ・ヴィンチェンティ会長は、顕微鏡を通して「モナ・リザ」の目の中に小さな文字を発見した。
ヴィンチェンティ会長は「肉眼では見えないが、彼女の緑褐色の右目には黒色の『LV』の文字があり、
これはレオナルド・ダ・ヴィンチのイニシャルだ」と語る。
「モナ・リザ」の左目にはより何かが隠されている。
ヴィンチェンティ会長は「左目の記号を識別するのは非常に難しいが、見たところ『CE』、あるいは『B』、『S』の可能性もある。
この名作は500年を経て、当時に比べ少しぼんやりした感じになっている」と説明した。
また「背景の橋のアーチには数字の『72』が見え、『L』と『2』の可能性もある」と、
目以外にも画面の中には記号が少なくない。
レオナルド・ダ・ヴィンチはルネッサンス期のイタリアの傑出した画家であり、科学者、哲学者でもある。
彼は記号や暗号で情報を伝えることに夢中だった。
彼が記号を目の中に隠したのは、目は心の窓というのがその理由で、一種の交流の手段だ。
より神秘さを増すモナ・リザの身元
「モナ・リザ」が知られるようになってから、彼女の身元についてはずっと論議されてきた。
「モナ・リザ」がレオナルド・ダ・ヴィンチの自画像だとするある歴史家は、彼は同性愛者で、心のうちは誰も知らず、
そのため自分を女性の姿として描いたと考えている。
「モナ・リザ」の微笑(びしょう)があまりにも有名なことから、目から「モナ・リザ」を研究する人は少ない。
目を研究するようになった理由についてヴィンチェンティ会長は、ある一冊の本からヒントを得たという。
「同僚が本屋で古い本を発見した。
その作者は1960年代のフランスの歴史学者で、その中には『モナ・リザ』の目の中には、
様々な記号や文字で満ち溢れていると書かれていた」
政治が荒れても、経済はそれなりに回る
平成22年12月25日の天声人語よりの引用
いつもと違う朝を迎えたカップルもおられよう。
週末にクリスマスが重なったお陰で、ホテルの有名どころはホクホクらしい。
東京の帝国ホテルは昨日も今日もいっぱい、両日の満室は5年ぶりという
▼JTBによると、年末年始に海外に出かける人は昨年より3%ほど多い58万人。
こちらも、前年を上回るのは4年ぶりだ。
円高や羽田空港の国際化が効いて、中国を除くほとんどの地域で増えている
▼政治が荒れても、経済はそれなりに回る。
だが、年金や税金の見通しが立たねば、消費者は安心してお金を使えず、企業は腰を据えて国内投資や採用に踏み切れない。
まずは国が将来図を示さないと、景気の本格回復は望めまい
▼政府の来年度予算案は、一般会計で過去最大の92兆4千億円あまり。
税収が少しばかり増えても、それ以上の国債が新たに発行される。
まっさらの民主党予算は初めてなのに、削りは甘く、出は緩く、自民党時代に輪をかけた借金体質である
▼これでは早晩、国債暴落か、いきなりの大増税だろう。
明日が読めないと人は守りに入る。
節約疲れの「プチぜいたく」もあるが、基本は外出を控える「巣ごもり消費」とか。
聖夜は家族と過ごした人が多かろう。〈硝子(ガラス)戸に小(ち)さき手の跡クリスマス〉大倉恵子
▼オリックスが募った「マネー川柳」に、〈妻の愚痴減って感じる真の底〉があった。
削られる給料があるうちはいい、ということか。
父が黙り、母が黙した家では「小さき手」も無口になる。
団欒(だんらん)を陰から応援するのは、サンタだけの仕事じゃない。
円高ドル安による経済的不況は深刻である。円安ドル高の不況よりも良いのかと諦めの思い。
それにバルブ経済も困るし 政治を携わる人たちも大変かと思う。
自分だけ例外の裕福な生活は論外だと思う。
その絶頂期にオープンした有楽町西武がきのう
クリスマスの夜に店じまいした
平成22年12月26日の天声人語よりの引用
祖母、母、そして自分。
東京に暮らした女三代の「デパート観」を、早世した劇作家の如月(きさらぎ)小春さんが書き残している。
明治末生まれの祖母は、あらたまった買い物は「日本橋の高島屋か三越」と決めてゆずらなかったそうだ
▼昭和ヒトケタ世代のご母堂はもっぱら新宿の伊勢丹。
老舗に対抗する新興勢力の花形だった。
そして自身は池袋の西武をひいきにした。
「おいしい生活」などの宣伝コピーが1980年代の流行語になり、存在感は他を抜いていた。
如月さんと同世代の筆者も、当時の華やかさは印象に深い
▼その絶頂期にオープンした有楽町西武がきのう、クリスマスの夜に店じまいした。
昼間の人、人、人は往年のセールを彷彿(ほうふつ)させた。
だが、どれだけ賑(にぎ)わっても明日はない。
燃え尽きるろうそくは、炎がきらめくほど淋(さび)しさが残る
▼その昔、デパートは押しも押されもせぬ祝祭的空間だった。
〈遠足の列大丸の中とおる〉と俳人の田川飛旅子(ひりょし)は戦後に詠んだ。
見学コースだったのだろう。
昭和30年代ごろまでは修学旅行の観光に組み込まれてもいた
▼そんな憧れの時代は遠くなり、包装紙のご威光もいつしか薄れた。
「冬の時代」も今年はいっそう寒く、愛知の松坂屋岡崎店や、京都の四条河原町阪急などが相次いで終止符を打った
▼往年のデパートには、晴れがましさと、ちょっと背伸びした幸せが詰まっていた。
大人には宝石箱、子どもにはおもちゃ箱といったところか。
名残をとどめるのは福袋ぐらいと皮肉る人もいる。
再生への知恵を、どうかしぼってほしい。
百貨店もス-パーに押され不況と相まって閉店するところが出てきている。
時々に大きい店に出かけるも人が閑散としているのを見かける。
不況は深刻で買い控えがさらに進んでいる感じである。
寒い朝の布団の内と外に、
極楽と地獄の隔たりを思う人は、
今も少なくないだろう
平成22年12月27日の天声人語よりの引用
たとえば漱石を読むと、東京の冬は当時かなり寒かったことがうかがえる。
身辺を描いた小品によれば、ある朝、風呂場は氷でかちかち光っている。
水道も凍りつき、温水をかけてやっと使えている。
いまは屋外も凍ることはまれだ
▼小説「二百十日」にも寒い朝のくだりがある。
〈布団のなかで世の中の寒さを一二(いちに)寸の厚さに遮(さえ)ぎって……〉は言い得て妙だ。
そして夜具の中で海老(えび)のように丸くなる。
寒い朝の布団の内と外に、極楽と地獄の隔たりを思う人は、今も少なくないだろう
▼その極楽から、地獄ならぬ現実へ。
冬の朝、目覚めてから布団を抜け出るまでの平均は13分余りという数字を、気象情報会社「ウェザーニューズ」が算出した。
全国1万1千人のアンケート回答をもとに集計したそうだ
▼寝起きの抵抗といえば「あと5分」が定番だが、実際はだいぶ長いようだ。
とはいえ、最後にはいやが応でも起きなくてはならない。
時間を切られたシンデレラだからこそ布団は至福のぬくもりとなる。
この値千金(あたいせんきん)感、くやしいが休みの朝では味わえない
▼おそらく漱石の時代と変わらないのは、布団を出るのに一番必要なのは「気合」という点だろう。
最多の56%が答えたそうだ。
2位は「部屋を暖める」の33%。
こちらは火鉢の昔よりずいぶん楽になった
▼今年も大詰めの日々となり、寒波の到来で北国は大雪が続く。
夏の猛暑と相殺してほしいが天の采配はままならない。
〈冬は又(また)夏がましじやと言ひにけり〉は江戸期の鬼貫。
寒さ対策と雪への備えを、どうぞ怠りなく。
本格的な冬となり寒さが身にこたえ 外出すること少なく運動不足となる。
適度な食事 運動は健康の為には基本的な事が出来ていない。
寒いと部屋に閉じこもりがちである
一刻も待てないのか待ってもらえないのか、
雑踏で熱心に携帯をいじる人は結構いる
その姿は傍らに人無きがごとしだ
平成22年12月28日の天声人語よりの引用
米国のフォード元大統領は不器用な人だったらしい。
どのぐらい不器用かというと、冗談めかして「あいつは歩きながらガムがかめない」と言われるほどだったそうだ。
半面、それゆえの飾り気のなさと、誠実感が持ち味の人でもあった
▼そんな話を、クリスマスの日に思い出した。
混雑する地下鉄駅の階段を上ろうとしたら、若い女性が倒れ落ちてきた。
下りながら携帯を操作していて、踏み外すか、人ともつれるかしたらしい。
何人かが駆け寄ったが、けががないのが幸いだった
▼一刻も待てないのか待ってもらえないのか、雑踏で熱心に携帯をいじる人は結構いる。
その姿は傍らに人無きがごとしだ。
フォード氏が存命なら驚くだろう。
いじるか、歩くか、どちらかにできないものか
▼死亡事故も起きている。
駅のホームで携帯画面に熱中するうち縁(へり)に近づき、入ってきた電車と接触したという。
本人だけでなく、先の女性のような場合は人を巻き込む恐れもあろう。
自転車に乗りながら、などは不届き千万である
▼さて仕事納めの日を迎え、街の忙(せわ)しなさも今日あたりが盛りだろうか。
作家の幸田文は昔、「押しつまる」という随筆を小紙に寄せた。
〈歩道だって素直には歩けない、人がみんなやけにぶつかって来る〉。
〈こういうなかにいると、「とげとげした速さ」が伝染して困る〉。
昭和30年代の歳末の世相である
▼何かに追われるように先を急ぐ気分を「追われ心」と言う。
スピードアップした現代だが、ひとつスローに、不器用に。
心はゆるやかに1年を締めたい
電車の中で熱心に本を読んでいる人を見かける風景は昔のこと。
携帯電話を熱心に操る人たちをみかけるようになった。
昔は赤尾の豆単に熱中していたのが小型の辞書器具を使い発音まで勉強している姿を見羨ましい。
悪政にも色々あって、苛政は重税や兵役などで民をさいなむ政治をいう。
これに対し秕政(ひせい)は、無能で不誠実な為政者による悪政を言うそうだ
平成22年12月29日の天声人語よりの引用
寅(とら)年も残すところわずか。
様々な故事や寓話(ぐうわ)にひっぱりだこの虎だが、「苛政(かせい)は虎よりも猛(たけ)し」はよく知られる。
むごい政治が民衆を苦しめるのは、虎の害より甚だしいの意味で、中国古典「礼記」にある
▼悪政にも色々あって、苛政は重税や兵役などで民をさいなむ政治をいう。
これに対し秕政(ひせい)は、無能で不誠実な為政者による悪政を言うそうだ。
「秕」とは皮ばかりで実のない穀物のことという。
そんな隣国の故事はさておいて、わが政界に色々の思いを募らせた一年が暮れていく
▼民主党政権は最後まで締まらなかった。
数合わせの工作ではとうとう、宗旨のおよそ異なる「たちあがれ日本」にもプロポーズした。
振られたのは無理からぬ成り行きだ。
ご都合主義にまた嘆息、の向きは少なくなかったろう
▼看板の「脱官僚」も、いよいよ消え入りそうな雲行きだ。
かつて自民党は官僚を囲い、官僚は族議員をラッセル車にして予算を取り、共存共栄を果たしてきた。
郷愁の歌声に志を折り、あっさり唱和してしまうのだろうか
▼「政治とカネ」では、小沢元代表が衆院政治倫理審査会に出る意向を固めたそうだ。
おととい首相に「出処進退」を言われた。
損も得も計った判断だろうが、いかにも遅い
▼評論家の大宅壮一に「私が男を評価する基準はただ一つ、潔いかどうかだけだ」の言葉がある。
説明を避け続け、結果、政治を足踏みさせた小沢氏は、大宅とはいわず国民の眼鏡にかなうかどうか。
暮れの政治風景を眺めつつ、ポケットの「一票」にそっと手をふれてみる。
今年は余り戦争の話題が出なかったのは幸いであった。
戦争は一発の爆弾が何十人 何百人を殺してしまう。ただ小さく報道されるだけである。
一方で一人の救急患者が病院をたらい回しになり死んでしまうとマスコミは大騒動する。
どうしてこのような矛盾に気がつかないのか不思議だ゛。
戦争と愛国心,国威発揚を混同し美化する人たちが出てくるのも不思議。
冷えた手をかざす焚(た)き火がほしい、師走の言葉から
平成22年12月30日の天声人語よりの引用
冬枯れの公園で藪柑子(やぶこうじ)の赤い実が鮮やかだ。
それぞれの喜怒哀楽を積み上げて、難しかった年がゆく。
冷えた手をかざす焚(た)き火がほしい、師走の言葉から
▼徳島が拠点の落語家の桂七福さん(45)は、自身のいじめられ体験をもとに小中学校で講演を続けてきた。
今いじめられている子には、「人間はほっとっても寿命が来たら死ぬ。
だから、どんなに悩んでも自分から死ぬ方向には絶対に行くな」。
訪ねた学校は延べ100校になる
▼北海道の森の木を使った職人手作りの椅子を、生まれた子に贈るプロジェクトがある。
発案者の旭川大学客員教授磯田憲一さん(65)が、新たな命を祝福しつつ言う。
「大きくなってこの椅子を見たら、自分がどれだけのものに包まれていたのか気づくはず」
▼自宅など私的な空間を人の集う場に開放する「住み開き」が静かに広まる。
提唱する大阪のアーティスト、アサダワタルさん(31)は「お隣が誰かも知らない個人主義の時代。
地域とつながるのは面倒くささもある。
それでもみんな、独りぼっちになりたいわけじゃない」
▼ケータイ世代の高校生伊谷陽祐さん(18)は、関東の仲間たちと「日本高校生学会」をつくった。
互いに会って話すことにこだわる。
「だって、メールだけで『この人いいな』とか思いたくないじゃないですか」
▼4人目の子を堕(お)ろすかどうか迷い、産むと決めた千葉県の佐々木七海さん(36)が声欄に「7月には新しい家族が増えます。
愛情をタップリ注ぎ、新しい命と共に頑張ります」。
卯(う)の年の子よ、存分に跳ねよ。
この季節、文房具店は暦と手帳、それに日記が売り場を広く占領する。
平成22年12月31日の天声人語よりの引用
机の脇に掛けたカレンダーを外して、新年用に替えた。
1年間、眺め、眺められて小欄を書いてきた。
良い日があり、さえない日があった。
いちいちを本人以上に記憶しているかも知れない。
未来から過去に流れた365日をとどめて、古暦(ふるごよみ)は少しやつれた風情で役目を終える
▼この季節、文房具店は暦と手帳、それに日記が売り場を広く占領する。
年あらたまる候は、せわしない日頃より長めのイメージで「時」を思う時節でもあろう。
〈ためらはず十年日記求めけり〉水原春郎
▼3年、5年と使える連用日記は根強い人気があるそうだ。
中高年には息災を願う座右の「お守り」でもあろうか。
〈三年連用を新しく買うごとに、無事にこの一冊を書き終わりたいと願っていた〉。
作家の吉屋信子が随筆に書いている
▼こよい、連れ添った日記の最後を埋める方もおられよう。
悔恨よりも、充実と感謝の言葉をつづる人の多からんことを。
そして、あすからの新しい日記帳には未知の歳月が並ぶ。
きびしい世相だが、空白で待つページに、不安ではなく希望を見てとりたい
▼きのう近所の神社をのぞいたら、こざっぱりと迎春の装いをととのえていた。
ざわざわした人の世を、いっとき、静かにひきしまる時間が通過していく。
しんしんと降る雪の中で除夜の鐘を聞く地方もあることだろう
▼身も心も浄化されるリセット感があらたな力を生む。
そして、新しいカレンダーに並ぶ一日一日を迎え入れる。
吉屋信子の一句が思い浮かぶ。
〈初暦知らぬ月日は美しく〉。
どうぞよいお年を。
日記は過ぎ去った日を思い出すのに良い手段である。時は現在(今)しかない。
好き去った過去も自分の人生の一部である。
過去の記録は新聞を見れば判るが自分の生活記録は思い出せない。
或る記事で忘れ去った過去は自己喪失するのと同様だとの記事を読み
メモ書きの日記を書き始めているが読み返すことは少ない。
京極氏と浅井氏
来年のNHK連続ドラマが「江」なので,浅井氏三姉妹のことに関心が高まってこの際に改めて調べてみようと思った。
浅井氏については近江の武将である佐々木氏が分れて湖北の京極氏 湖南の六角氏とに支配別れていることは知っていて
色々と調べた時期があった。浅井氏については京極氏の家臣で下克上した武将だとの認識無く一時は近江全域を支配
した時期も有ったとの認識しかなかった。長浜には二・三度訪れたことがあるも小谷城の有った所は無いが,
六角氏が拠点としていた観音寺城 安土城には何度か訪れている。インタ-ネットて調べだして読み出すときりが無く
知らないことばかりで引用して見る。
お市及びお江を読み出すと桃山城や小椋池と近所の話までにも及びだし際限がなくなってくる。
-以下インタ-ネットよりの引用-
佐々木氏
佐々木氏は、近江国を発祥の地とする宇多源氏の一流である。
宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国佐々木庄に下向し、その地に土着した孫の経方が佐々木を名乗った事から始まるとされるが、
これには異説もあり現在も議論されている。
宇多源氏の中でも佐々木氏は特に近江源氏あるいは佐々木源氏と呼ばれて繁栄し、各地に支族を広げた。
祖の佐々木秀義は保元元年(1156年)に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱において、天皇方の源義朝軍に属して戦った。
平治元年(1159年)の平治の乱でも義朝軍に属して戦うが、義朝方の敗北により伯母の夫である藤原秀衡を頼って奥州へと落ち延びる途中
、相模国の渋谷重国に引き止められ、その庇護を受ける。
秀義の4人の子定綱、経高、盛綱、高綱は、乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子源頼朝の家人として仕えた。
治承4年(1180年)に頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、佐々木四兄弟はそれに参じて活躍し、
鎌倉幕府創設の功臣として頼朝に重用され、本領であった近江を始め17ヶ国の守護へと補せられる。
また、奥州合戦に従軍した一門の者は奥州に土着し広がっていったとされる。
承久3年(1221年)に後鳥羽上皇と幕府が争った承久の乱が起こると、
京に近い近江に在り検非違使と山城守に任ぜられていた定綱の嫡子である佐々木広綱を始め一門の大半は上皇方へと属し、
鎌倉に在り執権の北条義時の娘婿となっていた広綱の弟の佐々木信綱は幕府方へと属した。
幕府方の勝利により乱が治まると、敗れた上皇方の広綱は信綱に斬首され信綱が総領となる。
近江本領の佐々木嫡流は、信綱の死後、近江は四人の息子に分けて継がれ、三男の佐々木泰綱が宗家となる佐々木六角氏の祖となり、
四男の佐々木氏信が佐々木京極氏の祖となる。
鎌倉政権において、嫡流の六角氏は近江守護を世襲して六波羅を中心に活動し六波羅評定衆などを務める一方、
庶流の京極氏は鎌倉を拠点として評定衆や東使など幕府要職を務め、北条得宗被官に近い活動をしており、嫡流に勝る有力な家となる。
京極氏の系統である佐々木道誉は、足利高氏の幕府離反に同調して北条氏打倒に加わり、足利政権における有力者となる。
また治承4年の頼朝挙兵時に平氏方につき、のち頼朝に従った佐々木義清(佐々木秀義の五男)は、
初め「源氏仇方」であったため平氏追討以後も任国を拝領しなかったが、永年の功と、承久の乱の時、幕府方についたため、
初めて出雲、隠岐の両国守護職を賜い、彼国に下向し近江源氏から分派して出雲国に土着したため、この一族を出雲源氏という。
系譜
凡例 太字は当主。
〇は、源頼朝の挙兵に応じた人物
宇多天皇
┃
敦実親王
┃
源雅信
┃
扶義
┃
成頼
┃
義経
┃
佐々木経方
┃
爲俊
┃
秀義
┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━━━━━┓
〇定綱 〇経高 〇盛綱 〇高綱 義清
┏━━━━┳━━━━┳━━━━┫ ┃ ┃ ┃ ┏━━━┫
広綱 定重 馬淵廣定 信綱 高重 加地信実 重綱 政義 泰清
┏━━━━┳━━━━╋━━━━┓ ┣━━┳━━┓
大原重綱 高島高信 六角泰綱 京極氏信 頼泰 義泰 宗泰
佐々木氏は一般に宇多源氏とされているが、次のような説も存在しており現在も決着はついていない。
- 宇多源氏説
- 従来唱えられてきた説で、史料としては『尊卑分脈』や『佐々木系図』(沙沙貴神社蔵)等が挙げられる。
- 宇多源氏である源成頼が近江佐々木庄に下向し、その孫の源経方が佐々木氏を名乗った事に始まるとされる説。
- この説では、古代豪族説にある沙沙貴山君の一族は源平争乱後衰退して宇多源氏佐々木氏に同化したとされる。
- 古代豪族説
- 明治に久米邦武によって提唱された説で、古代から平安時代中期まで近江の国に勢力を持っていた沙沙貴山君こそが佐々木氏の祖先ではないかという説。
- 太田亮はこの説を採用し著書「姓氏家系大辞典」では佐々木氏の出自を阿部臣としている。
- 2系列説
- 上記2説の中間説で、佐々木氏には宇多源氏系の佐々木氏と沙沙貴山君系の佐々木氏の2つの系列が存在するという説。
- 史料としては『吾妻鏡』などが挙げられる。昭和62年に林屋辰三郎らが編纂した新修大津市史では、この説を採用している。
末裔とされる主な人物
京極氏
京極氏の源流である佐々木氏は鎌倉時代以前より近江にあり、近江源氏とも称された家系である。
鎌倉時代に近江他数ヶ国の守護に代々任じられていた佐々木氏の惣領であった信綱は、四人の息子に近江を分けて継がせた。
このうち江北にある高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡の六郡と京の京極高辻の館を継いだ四男の氏信を祖とする一族が、後に京極氏と呼ばれる様になる。
なお、この時に江南を継いだ三男の泰綱は佐々木宗家を継ぎ六角氏の祖となっている。
足利尊氏に仕えた佐々木導誉(京極高氏)の活躍により京極氏は室町時代、出雲・隠岐・飛騨の守護を代々つとめ四職(侍所の長官になれる家)の一つとして繁栄した。
応仁の乱の後は家督争いや浅井氏の台頭により衰退したが、
京極高次、京極高知兄弟が戦国時代に信長、秀吉、家康に仕え御家を再興し、外様大名として若狭国主、丹後国主となった。
各家ともに分封、転封、改易はあったが、ともに明治維新を迎え、華族に列せられた。
御家人
鎌倉時代は江北六郡の地頭であり、始祖の氏信は鎌倉幕府の評定衆を務め、後を継いだ宗綱は、幕府が朝廷に対し天皇の譲位を促した際の使者を務めている。
守護大名
鎌倉時代末期に当主となった導誉(高氏)は、朝廷で検非違使、鎌倉幕府で御相伴衆を務めていたが、
元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の綸旨を受けた足利尊氏が倒幕の兵を挙げると、それに寄与し建武の新政に加わる。
しかし建武の新政は武士の支持を得られず、建武2年(1335年)に北条時行らが中先代の乱を起こし鎌倉を占拠すると、導誉は尊氏に従い討伐へと向かい、
相模川で時行軍の背後を奇襲し勝利に寄与する。
尊氏が鎌倉に入り幕府設立の動きを見せ、朝廷が新田義貞を総大将とする尊氏の討伐軍を発すると、導誉は尊氏軍として義貞軍と矢作川で戦うが敗れ、
手超河原では弟の貞満も討たれ一旦は義貞に下るが、次の箱根の戦いでは尊氏方として戦い勝利する。
延元3年/暦応元年(1338年)、後醍醐天皇らを吉野に追った尊氏が、京で北朝の光明天皇から征夷大将軍に任ぜられ室町幕府が開かれると、
導誉は功績を評され引付頭人、評定衆、政所執事、さらに近江・飛騨・出雲・若狭・上総・摂津の六カ国の守護を務めることとなる。
興国元年/暦応3年(1340年)、導誉と長男の秀綱は、家臣が光厳上皇の弟である妙法院の御所の僧兵に殴打された事を怒り、御所に火をかけ建仁寺を延焼させる。
延暦寺は朝廷と幕府に2人の死罪を求めるが、幕府はこれを放置し、延暦寺がさらに強く抗議を行った結果、二人は上総国山辺郡へ一時流されるが、
その道中は道々で酒席を設け宿々で美女を弄び、流人には見えなかったと言う。
その後の南北朝の戦いでは、正平3年/貞和4年(1348年)の四條畷の戦いで、導誉は2000余騎を率いて参じ楠正行軍を撃退するが、
その後の戦いで次男の秀宗が討たれる。
正平8年/文和2年(1353年)には侍所司を務めていた秀綱が、京を追われた後光厳天皇、足利義詮らを護衛している最中に討たれ、
正平17年/貞治元年(1362年)には摂津神崎橋での戦いで、秀綱の子である秀詮兄弟が討たれる。
導誉が亡くなると、家督は3男である高秀が継ぎ、天授5年/康暦元年(1379年)に起こった康暦の政変では、
美濃の土岐頼康と共に管領細川頼之の罷免を求めて近江で兵を挙げ、それを成し遂げる。
高秀の嫡子である高詮は、父のから継いだ飛騨の守護職に加え、明徳2年(1391年)に山名氏が蜂起した明徳の乱での活躍により出雲と隠岐の守護職も任ぜられる。
高詮の代に、京極氏は四職の1つとなり、以後の当主は江北、出雲、隠岐、飛騨を領し、侍所司を務める事となる。
また、高詮の弟である高久は近江の尼子郷を分け与えられ、尼子氏の始祖となる。
その後、当主は高光、持高、高数と続き、それぞれ侍所所司として室町時代に頻発した乱の鎮圧にあたる。
高数の後を継いだ持清は、応仁元年(1467年)に足利将軍家の家督相続などから生じた応仁の乱で一万余騎を率いて東軍に属し京で戦い、
翌年からは近江で西軍の六角高頼と戦い優勢を得るが、その最中に病死する。
持清の長男の勝秀と次男の政光は既に亡くなっており、勝秀の嫡子と考えられている孫童子丸が当主を継ぐが、僅か1年後に死去し、
その後を巡って政経と高清の間で争いが起きる(京極騒乱)。
始めは政経が高清を近江から追放し、出雲、隠岐、飛騨の守護職を得るが、政経はその後の六角氏との戦いに敗れ、
さらには徴税の命令に従わなかった出雲、隠岐の守護代である尼子経久を追放するも、逆に出雲の拠点である月山富田城を奪い返されたと伝わる。
その後、近江で高清との争いに敗れ、追われた政経と長男材宗は経久と和睦して出雲に拠点を移したと考えられており、
材宗の子である孫・吉童子丸へ京極家の家督を譲り亡くなるが、その吉童子丸の行方は分からず、出雲は戦国大名となる尼子氏の領国となる。
当主の座を得た高清は近江に在ったが、その後継を巡って次男の高吉を押す高清らと、長男の高広を押す浅井亮政らの間で争いが生じ、
高清は亮政らに敗れ追放される。
すぐに高清は亮政と和睦し江北へと戻るが、これを境に江北の支配権は浅井氏に奪われたと考えられている。
ただし、一介の小国人に過ぎなかった浅井氏による江北支配も順調ではなく、なおしばらくは京極氏を名目上の守護と仰ぐ時代が続いた。
だが、永禄3年(1560年)に浅井賢政の六角氏との断交を機に京極高吉が復権を画策して六角氏と結んで挙兵を企てるが失敗して江北を追われ、
京極氏の江北支配は完全に幕を閉じた。
戦国大名
高吉の子である高次は、初め織田信長に仕えるが、天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると光秀に属し、
山崎の戦いで光秀を討った羽柴秀吉からの追及を受ける。
しかし、姉妹の竜子が秀吉の側室となった事から許され、天正12年(1584年)に近江高島郡の二千五百石を与えられる。
その後は加増を重ね、翌々年には高島郡で五千石となった。
九州攻めの功により近江大溝城一万石で大名となり、小田原の役の功により近江八幡山城二万八千石、
文禄4年(1595年)にはさらなる武功により近江大津城六万石へと封じられる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは始め西軍に属するが、途中から東軍へと寝返り大津城に篭もる(家康との密約があったとされている)。
そして攻め寄せた西軍の大軍勢一万五千を相手に激しい篭城戦を行い、ついに攻め手を関ヶ原へと向かわせなかった。
この功により、高次は若狭一国を与えられ若狭後瀬山城八万五千石へと加増される。
高次の弟である高知は当初から秀吉に仕え、天正19年(1591年)に近江国蒲生郡五千石、文禄2年(1593年)に信濃伊那郡六万石、
翌年には十万石に加増される。
秀吉の死後は兄高次の与力大名として兄の家老とともに徳川家康に従い東北に出兵し関ヶ原の戦いで最前線で抜群の功をあげ、
丹後国一国を与えられ国持大名となり丹後守を称すことを許される、丹後宮津城12万3,000石を領した。
高次流 (若狭京極家)
高次は若狭一国および近江高島郡で9万2,000石を領した。
高次の子である京極忠高は、大坂の役での功績をあげ越前で敦賀郡一郡をさらに加増される。
徳川将軍家より正室を迎え、またさらに室町時代京極氏が守護を世襲した旧領国出雲・隠岐の二ヶ国26万4,000石へと加増転封とされた。
忠高は嫡子の無いまま急死してしまう。
末期養子の高和は播磨龍野6万石へと移封減俸、さらに讃岐丸亀6万石へと転封となる。
高和の子である高豊は、嫡子の高或に5万1,000石を、庶子の高通に多度津1万石をそれぞれ継がせた。
丸亀藩は飛び地として、近江の一部も領していた。
- 高或流(宗家)
- 丸亀で明治維新を迎え子爵に列せられた。
- 高通流
- 多度津で明治維新を迎え子爵に列せられた。
高知流 (丹後京極家)
高知は丹後一国12万3,000石を領した。
次代、嫡男の高広に宮津藩7万8,000石を、高三に丹後田辺藩3万5,000石を、養子高通に峰山藩1万石を分けて継がせた。
高知流京極家嫡流の宮津藩は、その後改易となった(子孫は高家として栄えた)。
- 高広流(宗家)
- 高広と嫡子で家督を継いだ高国の間で争いが生じ、寛文6年(1666年)幕府により所領を没収される。
- その後、高国の嫡子である高規とその子孫は高家として幕府に仕えた。
- 高三流
- 高三の孫である高盛は丹後田辺藩3万5,000石から但馬豊岡3万5,000石へ転封となる。
- 高盛の孫である高寛は夭折し高永が末期養子として1万5,000石を継ぎ、明治維新を迎え子爵に列せられた。
- 高通流
- 1万3,000石の大名として丹後峰山藩で明治維新を迎え子爵に列せられた。
華族
子爵となった京極高徳は現在の北海道虻田郡京極町に農場を拓き、後に町名の由来となった。
系譜
凡例 太字は当主、太線は実子、細線は養子
佐々木信綱
┃
京極氏信
┏━━┳━━╋━━━━━━━┓
頼氏 範綱 満信 宗綱
┣━━━┓ ┣━━┳━━┓
宗氏 黒田宗満 祐信 時綱 貞宗
┏━━┳━━╋━━┓
定信 貞氏 高氏 貞満
┏━━┳━━┫
秀綱 秀宗 高秀
┃ ┣━━┳━━━┓
秀詮 高詮 秀満 尼子高久
┣━━┓
高光 高数
┏━━┳━━┫
持高 持重 持清
┣━━┳━━┓
勝秀 政光 政経 (注1)
┣━━┓ ┃
高清孫童子丸材宗(出雲守護家)
┏━━┫
高広 高吉(材宗子)━養福院
┣━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━┓
小浜藩 高次━浅井初 高知 豊臣秀吉━竜子━武田元明 朽木宣綱
┣━━┓ ┣━━━━━━━┳───────┐┏━━━┛
松江藩 忠高 高政 宮津藩 高広 田辺藩 高三 峰山藩 高通
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丸亀藩 高和 高国 高直 高供
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高豊 豊岡藩 高盛 高住 高明
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多度津藩 高通 高或 高栄 高之 内藤弌信
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高慶 高矩 西尾忠需 (注2) 高永 高寛 高長 京極高庭
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高文 高中 蔀高教 高品 高久
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高賢 高朗 京極高周 高有 高備
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高琢 高宝 朗徹 高行 高倍 高鎮 松平忠馮
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高典 高徳 高厚 高景 京極高供
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高義 高富 京極靭負
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高光 高陳 (注3)
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(注1)勝秀から高吉に至るまでの系譜は諸説ある 高晴
(注2)高永は高栄の実子とする説もある
(注3)高陳は靭負の弟とする説もある
京極氏の主要家臣
浅井氏
正親町三条家(嵯峨家)の支族で本姓を藤原氏とするが、古代豪族に浅井氏があり、近江の在地豪族、郡司クラスの末裔に公家の庶子が入り婿したという説が有力である。
京極氏の譜代家臣として京極家中では中堅的位置にあった。「江北記」には京極氏の根本被官として今井、河毛、赤尾、安養寺、三田村氏ら12氏のうちの一つとして列記されている
尾張国に移り住み、織田氏・徳川氏に仕えた系統もある(異説・諸説あり)。
ドラマなどで「浅井」が「あさい」と読まれることも多いが、上記の通り「あざい」が正しく、現在の滋賀県でも「あざい」と読む。
ただし異論もあり、『浅井氏三代』(下記参考文献)を著述した宮島敬一は
-
- 本来「浅」を「あざ」と訓ずることはない
- 「あざい」と読んでいる易林本『節用集』では朝倉氏も「あざくら」と読んでいる
- 近江浅井氏の「あさい」の語源は朝日(あさひ)郷の転化によるものとするのが自然
と理由を挙げて、普通に「あさい」と読むべきだとしている。
近江浅井氏当主
- 浅井亮政
- 浅井久政
- 浅井長政
北近江に台頭
浅井氏は代々京極氏の家臣であったが浅井亮政のとき、北近江3郡を統べる京極氏の御家騒動を経て、
北近江では、有力豪族の浅見氏を盟主とした国人衆による京極家の家政体制が布かれた。
やがて、専制を強めた浅見氏を追放し、京極氏を浅井氏の傀儡としてしまい、京極家の有力家臣をも取り込み戦国大名へと成長していったとするのが通説である。
その後、亮政は勢力拡大を図って南近江の六角定頼と対立するも、一時、定頼の攻勢に押されてしまったことがある。
このため亮政は、越前の朝倉氏と同盟を結び、その支援のもとに定頼の攻勢を押し返して北近江の支配力を高めていくのである。
自立への道、険し
しかし亮政の死後、後継の浅井久政の代になると旧守護である京極氏の勢力の巻き返しや、
周辺大名である南近江の六角氏や美濃の守護代斎藤氏らに度々侵攻を受ける。
このため、第三国である越前の朝倉氏との提携は不可欠なものであった。
やがて、美濃守護代斎藤氏の没落によって東からの脅威は取り払われたが、六角氏の北進を阻むのは困難であった。
特に定頼の子・六角義賢からは大攻勢をかけられる一方で、六角家家臣の娘を久政の嫡男・新九郎に娶らされただけでなく、
新九郎の名乗りも「賢政」にさせられるなど、徐々に六角氏に臣従化を促され家臣化されていく。
このような久政の弱腰な外交姿勢に家臣たちの間に不満が募っていくのだった。
自立のための戦いから、滅亡へ
永禄3年(1560年)、嫁を強制送還した新九郎が強硬派家臣を率いて六角氏との決戦に臨んだ野良田の戦いでは、義賢に大勝。
浅井氏を六角氏から独立させると、久政は家臣たちから強制的に隠居させられ、家督は長政が継承することとなったのである。
しかし、久政の政治的発言力が完全に失われたわけではなく、隠居後でもなお発言力はあった。
その長政は美濃を支配して勢いに乗る織田信長と同盟を結び、信長の妹・お市の方を妻として迎えて、浅井氏の安泰を図った。
六角氏との対抗戦略としては効果的な同盟であったが、元亀元年(1570年)に、信長が朝倉義景を攻めるべく越前に侵攻すると、その対応に苦慮する。
織田氏との同盟関係を構築しながらも以前からの朝倉氏との同盟も堅持していたため、どちらの支援に加わるかで家論が割れたのである。
父の久政や家臣たちが「大恩ある朝倉を見捨てるべからず」と主張し、信長との同盟を破棄して朝倉氏を助けるように迫った。
長政は迷いに迷ったが、結果的には信長との同盟を破棄し、織田軍に背後から襲いかかっている(金ヶ崎の戦い)。
これにより長政と信長の同盟関係は終束し、以後の両雄は対立を深めることとなる。
しかし、同年に勃発した姉川の戦いでは地の利を活かせず、優勢で終えられなかった。
その後、朝倉氏の他に摂津の三好氏や、かつての仇敵・六角氏など信長に圧迫されていた勢力も対抗姿勢を強めたため、織田氏との抗争は一進一退。
一時的には織田氏よりも反攻勢力が勝っていたこともあった。
だが、朝倉氏の煮え切らない戦略姿勢が信長の息の根を止めなかったために、西上作戦を発動させた武田信玄の病没で最大の好機を逸してしまうと、
浅井氏などの反攻勢力は織田軍の大反攻に晒される。
信長包囲網の盟主・足利義昭が放逐されて元亀4年が天正に改められた1573年、小谷城の戦いで織田軍に居城・小谷城を攻囲された久政と長政父子。
最も頼みとしていた朝倉氏は、小谷城への来援に現れるも自軍の事情で越前本国へ退却してしまう。
その退却中に織田軍の猛追を受けた上に、越前の本領まで攻め込まれて滅亡した(一乗谷城の戦い)。
完全に孤軍となった浅井氏の父子は自害して果て、浅井氏は滅亡したのである。
近江浅井家の女性
浅井氏家臣団
浅井氏の家臣団は元々浅井氏の家臣であった譜代系である田辺・保多・矢野・遠藤らのほかに、
かつて京極氏家臣団の頃に同格であった赤尾・海津・小山・三田村・八木・布施・今井・磯野・阿閉などの名前が挙げられる。
譜代家臣の数の少なさは浅井氏の近江支配には大きな問題点であった。
少なくとも亮政の頃には国人層による連合制的な面が強く、代を経るごとに支配体制が強化している。
磯野員昌を磯野氏本拠の磯野山城ではなく、元は小川氏の居城で百々内蔵助戦死後の佐和山城に置き、
浅見氏の居城であった山本山城に阿閉氏を配した天文年間以降には支城在番制に近いものを構想していた様子も伺える。
だが集権的とは言いがたく、長政の代に織田信長との戦いが長期化すると元京極氏家臣団の中からは浅井氏を離反するものが多く現れた。
なお、桑田忠親は永禄年間の浅井領支城数は73ほど検出されているとしている。
- 大野木秀俊:土佐守。浅井氏庶流の重臣。
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- 小谷城の清水谷にも土佐屋敷(官命にちなむ)と言う名で大野木氏の邸宅跡が残る。
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- 姉川合戦時には横山城を守備。主家滅亡の際信長に降伏したが許されず、殺害された。
- 三田村国定:左衛門大夫。横山城を大野木秀俊らと共に守護していたが、姉川合戦において戦死。
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- 三田村氏は京極氏の根本被官であったが、浅井氏の勢力拡大の際に二つに割れた。
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- 浅井側についた三田村氏の三田村定頼が亮政の娘と結婚しているため、親族衆に数える向きもある。
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- 国定は定頼の一族であろうが、関係はっきりしない。
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- 国定の4人の子が小谷落城の際に織田軍と交戦・戦死しているので、年齢的には久政に近いのであろう。
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- 定頼とは兄弟か。なお三田村定頼・光頼父子も小谷落城時に討ち死にしている。
- 安養寺氏種:近江の土豪。元は京極氏の被官。長政と織田信長妹の縁組の仲介役を務めたという説もあるがはっきりしない。
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- 主家滅亡後は京極高次に仕え、1606年死亡。『浅井三代記』の安養寺経世と同一人物か。
- 浅見道西:対馬守。元山本山城の浅見氏の一族であろうとされているが関係は不明。亮政の代に浅井氏と交戦した浅見氏も対馬守を名乗っているため、或いは親子か。
- 弓削家澄:通称六郎左衛門。姉川合戦にて戦死。弓削氏は京極家の重臣であったが後に浅井氏に仕えた。びわ町に弓削屋敷跡とされる弓削館が残る。
- 脇坂秀勝:通称左介。久政の代から浅井家の家臣。外交文書などを発行する奏者を勤めた。
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- 出身地が近い脇坂安明・安治親子と同族であろうが、関係ははっきりしない。
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- 中島直親:横山城主中島日向守直頼の子。通称宗左衛門。1573年丁野城を攻めた織田軍に攻め落とされた後、記録が途絶える。
- 片桐直貞:通称孫右衛門・肥後守。小谷城須賀谷を守備していたとされる。後に豊臣秀吉に仕えた。片桐且元の父。
六角氏
- 宇多源氏佐々木氏流。平安時代中期に近江国蒲生郡佐々木庄に下向した宇多源氏源成頼の子孫で、
- 武家として繁栄し代々近江の守護として勢力を持った佐々木氏の一族。
- 世々源氏の郎党となり、成頼の玄孫にあたる佐々木秀義は、保元元年(1156年)保元の乱で、天皇方の源義朝に属して勝利したが、
- 続く平治元年(1159年)の平治の乱で、義朝に属し戦うも敗れたため、近江国を追われ、一旦関東へ落ち延び、約20年間渋谷荘に籠居した。
- その後、治承4年(1180年)に源頼朝の伊豆挙兵の時、秀義の子定綱、経高、盛綱、高綱らが頼朝に従い功があったため
- 、秀義の嫡子定綱が、近江の守護に還付せられた。
- 定綱の息子の信綱の子らが四家に分かれ六角氏、京極氏、大原氏、高島氏となった。
- また佐々木秀義の五男、佐々木義清が出雲、隠岐の両国守護職を賜い、彼国に下向し土着したためここから分派した一族を出雲源氏という。
鎌倉三代将軍源実朝の死後に、摂家出身の将軍を迎えた幕府は、執権の北条義時が勢力をのばし全国の武士の統領として、天下に君臨するようになった。
そうして承久三年(1221年)五月十五日、上皇は全国の武士に、北条義時追討の院宣を下した。
阿波では、佐々木経高の嫡男で守護代の高重が、阿波兵六百人をひきいて撫養の港(現鳴門市)から、父のひきいていた淡路の千七百余の兵と合流し上京した。
上皇の期待に反して、兵は思うように集まらず、有力な守護達は幕府側へ着いてしまった。
圧倒的な鎌倉の大軍を支えることが出来ず、それぞれの国もとへ逃げ帰った。
この戦いで、阿波の佐々木経高と高重の父子は討死して果て、六百余の兵もほとんど阿波へ帰らなかったという。
これが承久の変である。
阿波国に対しては、幕府は佐々木氏に代わって、小笠原長清を阿波守に任じた。
長清は阿波へ入ると、佐々木氏の居城であった名西郡の鳥坂城を攻めた。
ほとんど兵のいない鳥坂城は炎上し、留守を守っていた経高の二男高兼は、一族や老臣らと城をすてて、名西郡の山中鬼篭野村へ逃げた。
しかし小笠原氏は高兼の生存を許さなかったため、高兼は一族と家臣達が百姓となって、この地に住む事を条件に、自ら弓を折り、腹を切って自害した。
現在、神山町鬼篭野地区にある弓折の地名は、高兼が弓を折って自害したところで、
同地区に多い佐々木姓は、かっての阿波守護職、近江源氏佐々木経高の後裔達であるといわれる。(ふるさと森山 鴨島町森山公民館郷土研究会)
関連項目
六角氏(ろっかくし)は、宇多源氏佐々木氏の流れを汲む、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江南部を中心に勢力を持った武家(守護大名)。
なお、藤原北家流の公家六角家とは、血のつながりは無い。
近江源氏と呼ばれた佐々木氏の四家に分かれた家のうちの一つで、鎌倉時代より守護として南近江一帯を支配していた。
六角氏と名乗ったのは、京都の六角堂に屋敷を構えたからだと言われている。
鎌倉時代、佐々木氏は、承久の乱で一族の多くが宮方に属した前歴もあって、幕府から特に警戒されていた。
佐々木信綱の死後、所領の多くは三男の泰綱が受け継ぐはずであったが、信綱の廃嫡された長男の重綱の訴えを幕府が容れたため、領土は兄弟で四分された。
泰綱の一族である六角氏が佐々木氏の嫡流であることは変わりはなかったが、その勢力は大きく減退することになる。
鎌倉幕府の滅亡時は、六角時信は六波羅探題に最後まで味方したが敗れ降伏している。
同族である京極氏とは、京極氏が台頭した室町時代以降敵対し、近江の覇権をめぐって争った。
また、領内に比叡山が存在することもあって、室町時代を通じてその支配は安定せず、
六角満綱、六角持綱父子は家臣の反乱により自害に追いやられ、それを継いだ六角久頼は京極持清との対立の末、心労により自害して果てている。
久頼の跡を継いだ六角高頼は応仁の乱では西軍に属し、持清と共に東軍についた従兄の政堯と戦い、1487年(長享元年)には9代将軍足利義尚、
10代足利義材から討伐を受ける(長享・延徳の乱)。
高頼はこの侵攻を二度に亘り跳ねのけ、さらに守護代である伊庭氏との対立に勝利し、六角氏の戦国大名化をなしとげた。
ただし通説の久頼の没年が高頼の生前になってしまうため、久頼−高頼間に1世代あるとする立場もある。
戦国時代に入ると六角定頼(高頼の次男)が登場する。
定頼は足利将軍家の管領代となり、観音寺城を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げ、六角氏の最盛期を創出した。
伊賀や伊勢の一部までにも影響力をおよぼしたとされる。
しかし定頼の死後、後を継いだ六角義賢の代においては、1560年に野良田の戦いで浅井長政と戦って敗れるなど六角氏の勢力は陰りを見せはじめる。
その子・六角義治(義弼)の代においては1563年に重臣中の重臣であった後藤賢豊父子を殺害して、六角家の内紛となる観音寺騒動が起こし、
六角式目への署名を余儀なくされるなど、六角氏の弱体化は明らかとなった。
このように六角氏は六角義賢・義治父子の時代に大きく衰退し、1568年、織田信長率いる上洛軍と戦って敗れ、
居城である蒲生郡の観音寺城を去ることになる(観音寺城の戦い)。
その後、義賢と義治は甲賀郡の石部城に拠点を移し、信長に対してゲリラ的に抵抗したが、次第に歴史の表舞台から遠ざかることとなった。
しかし本能寺の変頃までは弱小勢力ながら近江で活動していたようである。のち豊臣秀吉あるいは豊臣秀次によって家臣にとりたてられたという。
義治の婿養子・定治は、豊臣氏・蒲生氏を経て前田氏に仕え、江戸時代には加賀藩士の佐々木家として1,000石となり、子孫が加増され2,100石で幕末に至った。
義治の弟義定(観音寺騒動の後に義治に当主の座を譲られたと家伝にあるが、異説もある)の子孫も江戸幕府の旗本となった。
こちらも本苗の佐々木氏を名乗っている。しかし義定の曾孫・求馬定賢が若年で死去し絶家となった。
義治の弟高一は、織田信雄の家臣となり、その子正勝は生駒氏を称し、大和宇陀松山藩織田家の重臣となった。
その子孫は、丹波柏原藩織田家に仕えた。
以上が従来の通説であるが、江戸時代に記された江源武鑑では、定頼の系統は六角氏庶家の箕作氏で陣代にすぎず、
氏綱(高頼の嫡男で定頼の兄)の子義実の系統が嫡流であるとしている。
この書物では豊臣秀吉が氏綱の子義秀に仕えて偏諱を受けたことや、氏綱の子義郷が豊臣姓と侍従の官を授かった12万石の大名となった等と書かれており
、寛政重修諸家譜の山岡氏系図などに引用されている。
しかし、この書物は沢田源内という人物が書いた偽書であるとされており、同時代史料にこの系統の実在を裏付けるものは発見されていないこともあり、
- 『寛政重修諸家譜』『系図纂要』『石川県姓氏歴史人物大辞典』に拠る。ただし室町後期から戦国時代にかけての系図は諸説ある。
佐々木信綱
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大原重綱 高島高信 六角泰綱 京極氏信
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頼綱
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頼明 宗信(宗継) 成綱 宗綱 時綱 時信
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森川宗春 氏頼 山内信詮(建部信詮)
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満高 義信
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満綱
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持綱 時綱 久頼
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政信 政堯 高頼
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氏綱 定頼 大原高保 梅戸高実
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義賢 賢永
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義治(義弼) 義定(高定、賢永)
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定治 高賢 高和
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定之 高守(定治)高重(義忠)高慶
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定賢 定保 定賢
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定明
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定国
┃
定則
┃
定正
┃
温二郎
- 『寛永諸家系図伝』では、頼綱の跡は子・宗信(宗継)で、宗信から成綱・宗綱と直系で続き、成綱弟・時信へ至る。
- 『寛政重修諸家譜』は事蹟の年代などから上記のように考証・修正している。
六角氏の主要家臣
室町時代
戦国時代