ホーム 医療 高齢者福祉 芸術,哲学 京都伏見・宇治
随想 シュワィツァ−・緒方洪庵 ギャラリ 検索リンク集


随想 

平成10年9月分 10月分 11月分 12月分 

平成11年1月分 2月分 3月分 4月分 
5月分 6月分 7月分 8月分 9月分 10月分 11月分 12月分

平成12年1月  2月分  3月分 4月分 5月分 6月分 7月分 8月分 9月分 10月分 11月分 12月分 

平成13年1月 2月分  3月分 4月分 5月分 6月分 7月分  8月分 9月分10月分11月分 12月分 

平成14年1月分  
2月分 3月分 4月分 5月分 6月分 7月分  8月分 9月分 10月分 11月分 12月分

平成15年1月分 2月分 3月分 4月分 5月分 6月分 7月分 8月分 9月分 10月分 11月分 12月分

平成16年1月分 2月分 3月分 4月分 5月分  6月分  7月分  8月分 9月分 10月分11月分12月分

平成17年1月分 2月分 3月分 4月分 5月分 6月分 7月分 8月分 9月分  10月分 11月分 12月分

平成18年1月分 2月分 3月分 4月分  5月分 6月分 7月分 8月分  9月分 10月分 11月分 12月分

平成19年1月分 2月分 3月分  4月分  5月分 6月分 7月分 8月分 9月分 10月分 11月分 12月分

平成20年1月分 2月分 3月分 4月分  5月分  6月分 7月分 8月分 9月分 10月分 11月分 12月分

平成21年1月分 2月分 3月分 4月分 5月分  6月分  7月分 8月分 9月分 10月分 11月分 12月分

平成22年1月分 2月分 3月分  4月分 5月分 6月分 7月分 8月分  9月分  10月分 11月分 12月分

平成23年1月分 2月分 3月分 4月分 5月分



4月について





4月は桜の季節である。寒さは遠うのき,暖かい日が続く毎日である。桜は一週間もすると散ってしまう。

この季節になると至る所に桜の並木を見ることが出来る。

満開の時期に生まれて初めて京都八幡の背割り堤と吉野の千本桜を見に行った。

八幡の桜は大勢の人たちと一緒に桜の下を歩き,

二度目だが吉野の桜は遠くから満開の桜を眺めた。こちらも大勢の人たちが見物に来ていた。

先月に続いて東日本大地震について毎日のように報道がなされているが,

その対策は遅々として進まない。

福島の原子炉の回復は放射線被爆という目に見えない障害が大きく立ちはだかっている。

原子力のそもそもの実用化の始めは第二次大戦中相手の国を撃破する為の手段とし、原子力の開発競争が行われまず原子爆弾が開発された。

さらに巨大な破壊力を持つた水素爆弾まで開発された。

その破壊力を平和利用しようとして原子力発電が開発されてきた経緯がある。

原子力の発明は,人間が自己能力を超えたものを手に入れたことでもって人類破滅の第一歩を歩んだと考える。

原子爆弾が実用化され,利用されたのが広島 長崎の日本への原爆投下が唯一のものである。

米ソ対立から膨大な原子爆弾の開発競争が行われ世界には地球をも何度も破壊しても余りあるぐらいの原子爆弾が世界中に充満している。

その他に自己能力超えた原子力を平和的に利用をしようとして原子力発電が一般の国々でも利用されるようになり、今日に至っている。

今回の福島での原子力発電所での事故の経緯を見るならば、原子力発電所の崩壊による原子放射能の破壊力が如何にすさまじいことかを示した。

福島の原発事故ではチェルノブイリ事故, スリ-マイル事故に続いて三番目となる。

原爆投下は日本が世界で一番目でその後はない。


子力による被害国としては日本が一番強く世界中に訴える義務と責任・資格が充分にある国である。

唐突とも言われているが,浜岡原発の廃止は多くの人達に共感を得ることが出来るであろう。

原子発電施設への自爆テロがあればアメリカのニューヨークでのビル爆破のあの被害をもたらした9.11事件の比では無いことが起きるであろう。

平和的なものへのエネルギー利用はもっと自然にあるエネルギー(再生可能エネルギー)を利用する方向に向かうべきである。

火力発電(石油 石炭)や原子力発電(ウラン)は渇性エネルギーで、これは化石燃料石油天然ガスオイルサンドメタンハイドレート等)やウラン等の

埋蔵資源を利用するもの(原子力発電など)を指しこれに頼るべきでない。これは色々な被害をば人類にもたらしている。

原子力の研究の発端は戦争で相手を負かすため,戦争での勝利をつかむ為に研究発明されたもので

その平和的な利用にもどうしても人類に対し危害を与える要素が潜んでいる。

原子力研究に携わって来たアインシュタイン それに湯川秀樹さんたちは核兵器廃絶を訴え平和運動にも積極的に携わり

ラッセル=アインシュタイン宣言マックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。。

シュバイツァ−などの医師として原爆反対に晩年まで訴えつづけておられた。

原子力は人間が発明・発見して人間自身でもって制御できないものを創造したことになる。

福島での事故を予言している論文が有る事が報道されている。

福島第1原発事故を受け、2000年に死去した「原子力資料情報室」元代表の高木仁三郎さんが

阪神大震災後に発表した論文がネット上で話題となっている。

政府や電力会社の決まり文句となっている「想定外」という姿勢に当時から警鐘を鳴らし、

福島第1原発の危険性を指摘する“予言”のような内容でふるって、

関係者は「今こそ読まれるべきだ」と話しとしている。

 論文は日本物理学会誌の1995年10月号に掲載された「核施設と非常事態―地震対策の検証を中心に―」でA4判4ページ。(影響が大きいためか

読めなくなっている)

原子エネルギ−利用よりも自然エネルギ−への積極的な利用変換に賛成する。

原子力の存在そのものがが人類破滅への第一歩を踏み込んだと思える。

闘争の本能が本来人間に備わったものならば、原子力の創造はは避けるべきものであった。

世界中での不思議な位に平和な時代が少なかった事を考えるならば原子力は早く捨て去る性質のものである。

世界情勢として中近東では近代化を求める市民達の平和デモが毎日報道され続けられている。

リビアのカタセフィ大佐は負傷したとも伝えられているが、中近東での専制支配は世界が協力し排除すべき

事柄で、情報は災害報道に隠れ殆んど伝わってこない





ヘッドライトテールライト(動画)








2万に迫る安否不明と
家財を損じた十数万の避難民
先が見えない原発事故







平成23年4月1日の天声人語よりの引用


上野動物園がきょう再開し、震災前に中国からやって来たパンダが公開される。

途切れた日常が、遠慮がちに戻り始めた。

月が替わり年度が改まるこの機に、せめて気持ちだけでも切り替えたい

▼3週間を経てもなお、この災厄は冷霧のように人心を包む。

2万に迫る安否不明と、家財を損じた十数万の避難民、先が見えない原発事故。

現実も意識もいまだ「災中」をさまよい、復興へとギアが入らない。


この国は津波になぶられ、放射能にとらわれている

▼電力不足、財政負担と憂いの種は尽きず、入学や転勤に伴う内輪の宴まで自粛モードである。

石原都知事は、花見酒などもってのほかと言う。

そういう連帯の示し方もあるけれど、経済が回らないと被災地はまた沈む。

自縄自縛である

▼かく言うメディアも震災一色だ。

世界史級の出来事を前に、報道はともかくテレビCMまでが重苦しい。

被災者を思い、節電を心がけながらも、平生に戻せることは戻し、戻れる人は戻る時だろう

▼日々、気の持ちようと行いを少しずつ変えて、普通に近づいていく。

あの愛(いと)おしい、平凡な日常に。

被災した人も、免れた人も、目覚めるたびに別の一日が始まる。

あすは少しだけ笑顔が増えると信じて、前を向こう


▼さて、紙面一新に伴って、小欄も本日から少しだけ変わった。

字が大きくなり、日付がこうして「箱」の中に入ったことで、前より21字少ない。

一つの文にすれば以下の長さである。

被災者と心を一つにし、日本を必ず取り戻す。




遅々として福島原発事故の作業が始まりかけている。自然災害によってもたらされた人災による原子力発電の世界史上

第二番目の大惨事であった。









住民の不安を「安全神話」で包み込み
原子力は日本の電力の3割を担う







平成23年4月2日の天声人語よりの引用

福島の事故で、中部電力の浜岡原発に不安の目が向けられている。

同じ太平洋岸の沸騰水型である。

浜岡の名で思い出すのは、遠い夏の草いきれと鶏舎のにおい、大学の卒業研究で通い詰めた日々だ

▼春に米スリーマイル島の事故が起きた1979(昭和54)年のこと。

東海地震のリスクが言われる中で、浜岡の営業運転は4年目に入っていた。

わが故郷静岡の原発は大丈夫かというのが、卒研の動機である

▼題して「原子力災害をめぐる住民意識」。

周辺の人々がどれほど案じているのか、100人に面談した。

いずれ命にかかわる事故が起きると3割強が考えていたが、心配しても始まらない。

悟りにも似た空気が集落に満ちていた


▼住民の不安を「安全神話」で包み込み、原子力は日本の電力の3割を担う。

釈然としないまま、生活者として甘受する自分がいる。


福島発の電気が東京に回る現実に黙しておいて、したり顔で脱原発を説くつもりはない

▼それでも地元の「裏切られ感」は分かる。

福島第一は運転歴が浜岡より5年長く、地元2町は40年以上、財政や雇用で東電と運命共同体だった。

原発城下町の落城である。

安全を信じた町民が今、家に戻れない

▼長い離散は地域社会を壊し、故郷が消えるかもしれない。

電力を支えた人々に、これ以上の仕打ちはなかろう。

恩恵に浴すことなく放射能にさらされた隣接市町も、肉親の捜索さえできない状況だ。

その憤りを共有し、代替エネルギーと向き合う気力を奮い起こしたい。



原子力に頼ることの怖さを心底に知るべき事故でもあった。









日常というものがかくも微塵(みじん)に破壊された光景を見たことはないと、
遅ればせながら被災地に入って思った







平成23年4月3日の天声人語よりの引用


日常というものがかくも微塵(みじん)に破壊された光景を見たことはないと、遅ればせながら被災地に入って思った。

材木、瓦、ミシン、仏壇、めがね、電動歯ブラシ、家計簿、かつら、割れた便器。

ありとあらゆるものがねじれ、ゆがみ、ひん曲がって、街が集落が消えていた

▼阪神大震災のときは翌日神戸に入った。

あれほど壊れた街を見ることはもうないと思っていた。

しかし――。「すべての言葉は枯れ葉一枚の意味も持たないかのようであった」。

アウシュビッツを訪ねた開高健の「うめき」が脳裏をよぎっていった

▼当事者と非当事者との間にある越えがたい深淵(しんえん)。

そこに懸ける言葉を持ちうるのか。

「(3・11を)ただの悲劇や感動話や健気(けなげ)な物語に貶(おとし)めてはいけない」。

作家のあさのあつこさんが小紙に寄せた文の一節を、きびしく反芻(はんすう)した


▼たぶん私たちも、言葉が枯れ葉一枚の意味も持たない壊滅状態から、ともに歩み出すしかないのだ。

深淵を飛び越えたつもりの饒舌(じょうぜつ)は、言葉の瓦礫(がれき)にすぎないとあらためて思う

▼取材した気仙沼から石巻まで、大小の良港のある陸前は今が早春。

〈ふなばらを/まつ青にぬりたてられて/うれしさうな漁船だ/――鮪(まぐろ)をとりにでかけるところか/ああ、春だの〉(山村暮鳥)。

こうした平穏は今や遥(はる)かに遠い

▼女川の町は文字どおり無くなっていた。

女性がひとり、這(は)って形見を探していた。

「泣いても泣いても泣けてきて」。

国をあげての長い試練となる。

懸ける言葉を絞り出したい。





被災された人たちの気持ちは痛いほどにわかる。戦争中での災害に対しこのような気持ちになれるか疑問におもう。

第二次大戦は何のための誰の為のせんそうだったかは判っていない。

マインドコントロールされ続けていた人間の愚かさ恐ろしさを知る。









東北大教授によれば、国内に記録が残る津波の遡上(そじょう)は
十数キロぐらいが多い
数字は、今回の地異の激しさを物語る








平成23年4月4日の天声人語よりの引用


東北を代表する川といえば日本海に注ぐ最上川と、岩手県を南流して宮城県石巻市で太平洋に出る北上川だろう。

その北上川は全長249キロにおよぶ。こんな一首がある。

〈川幅の太さのままに海となる北上川の長き圧力〉高橋みずほ

▼だが大津波は、その滔々(とうとう)たる「圧力」を押し戻して、川を50キロもさかのぼっていた。

分析をした東北大教授によれば、国内に記録が残る津波の遡上(そじょう)は十数キロぐらいが多い。


数字は、今回の地異の激しさを物語る

▼被災地を歩くと津波の届いた高さに驚く。

役場の支所や学校など、安全なはずの指定避難所を各地でのみ込んだ。

北上川河口にあった支所は想定された津波の最高水位より高くに立っていた。

しかし全壊し、身を寄せた49人のうち助かったのは3人だけだった

▼隣の南三陸町では、3階建て、高さ11メートルの堅固な防災対策庁舎の丈を軽くこえた。

屋上でフェンスにしがみついた多くの職員が流されていった。

赤い鉄骨だけを残し、漁網やブイがからみついたその廃虚が痛々しい

▼地震翌日の小欄で引いた寺田寅彦は、日本の自然には「慈母の愛」と「厳父の厳しさ」があると述べている。

慈母とは、たとえば豊かな幸を育む三陸の海であろう。

だが厳父と呼ぶにはこの天災は酷に過ぎる。

手加減なしの折檻(せっかん)さながらだ

▼〈やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに〉啄木。

被災地にはなお悲嘆と慟哭(どうこく)がやまない。

いのち萌(も)える春よ、どうか慈母の優しさでみちのくを包めよ。




本当に津波の恐ろしさを始めて知った気持ちである。








人の器量は金の使い方で判断せよという、ソクラテスの言葉である






平成23年4月5日の天声人語よりの引用


その使い方を知るまで、富者の財産をほめてはならぬ〉。

人の器量は金の使い方で判断せよという、ソクラテスの言葉である。

金持ち金使わずともいうが、例外はいくらもあるらしい


▼ソフトバンクの孫正義社長(53)が、大震災の義援金に100億円を出す。

経営から退くまで、毎年の役員報酬も全額寄付するそうだ。

さすがは資産数千億円とされる経営者、ポケットマネーの桁が違う

▼ユニクロを展開する柳井正氏(62)、楽天創業者の三木谷浩史氏(46)も、それぞれ個人で10億円という。

消費者への恩返しもあろう。

企業イメージは向上するが、そうした打算や商魂を超えた太っ腹を思う

▼内外の芸能人やスポーツ界からも浄財が続いている。

ゴルフの石川遼選手(19)は「自分にも気合が入る」と、今季の獲得賞金を全部差し出す。

実業家と同じく、己の才覚才能で稼いだお金だけに、気持ちも格好もいい。

副詞の「ぽんと」は彼らのためにある

▼20代、30代も負けていない。

ジャニーズ事務所の被災者支援イベントには39万人が参加した。

「ちりも積もればの、ちりになれば」。

募金の長蛇に加わった女性がテレビで話していた。

動員力を生かした、SMAPや嵐ならではの社会貢献だろう

▼日本赤十字社などへの義援金は阪神大震災をしのぐ勢いで、もう1千億円を超えたとみられる。

ゼロがいくつも並ぶ振り込みから、子どもが握りしめた10円玉まで、「おかね」という響きの何とさわやかなことか。

めったにない感覚である。




世界から震災への善意の寄付金が集められ,被災者に配布されているがまだ本格的ではなさそうだ。









震災前までは、17回中12回で想定した地震が起きた
、あの日を境に「打率」が落ちた。







平成23年4月6日の天声人語よりの引用


コンビニもカップ麺もない時代、夜更けの食欲は夜鳴きそばの屋台が満たした。

チャルメラの哀調に、寝たはずの腹の虫が共鳴したものだ。

耳の条件反射とでもいうのか、終業のチャイムは解放感を醸し、緊急車両のサイレンは胸騒ぎを催す

▼「テレビの地震速報が鳴るたび、5歳の娘が近くの人に抱きつくようになった」。

週刊誌のアエラに、都内の主婦(39)の話があった。

耳目を引こうと不協和音を重ねたあのチャイム。

「意図された不快音」にどれほど身構えただろう

▼気象庁は4年前から、最大震度5弱以上の地震を予測すると、揺れが強そうな範囲に緊急速報を出している。

震災前までは、17回中12回で想定した地震が起きた

▼が、あの日を境に「打率」が落ちた。

48回も出したうち、想定通りは本震を含め16回、あとは震度2以下の地域にも速報してしまい、最大でも2という「空振り」も12回。

逆に、震度5級を7回見逃した


▼同時に起きた余震を、計器が大地震と勘違いするらしい。

気象庁は恐縮するが、3割当たればオオカミ少年ではないし、打者と同様、見逃しより空振りがいい。

5歳には気の毒だが、身構えて終われば幸いである

▼各地の震度がすぐ報じられる様子に、慣れない外国人は驚嘆するという。

苦い経験から硬軟の技を紡いだ地震国らしく、この悲しみ、悔しさも必ずや知恵に変え、津波から反射的に身を守るすべを磨こう。

二度と災害に泣かない故郷こそ、亡き人の願いだ。

一粒の涙も無駄にすまい。



テレビを見ていて余震の発生のテロップを見ていてその多さに驚く。








筒井康隆さんの短編に「ヒノマル酒場」なる傑作がある
ニュースの軽重は受け手が決める、という痛烈なメディア批判である
大相撲の八百長問題はどうか








平成23年4月7日の天声人語よりの引用


筒井康隆さんの短編に「ヒノマル酒場」なる傑作がある。

大阪のとある大衆酒場。長っ尻の常連に悩む女将(おかみ)は、客を笑わせて帰す一計を案じる。

その頃、世間は通天閣前に降りたUFOで騒然としていた

▼店のテレビが伝える映像を作り物だと思った客たちは、食を調べに訪れた宇宙人を面白半分に殺してしまう。

記者が殺到する修羅場。

女将に頼まれていた男がグリコの看板の姿で現れ、「ぱんぱかぱあん。

閉店でえす」。

ニュースの軽重は受け手が決める、という痛烈なメディア批判である

▼あの津波もUFOのように、それまでマスコミが報じていた大小の出来事を記憶のかなたに押し流した。

震災の陰で、当事者以外には「どうでもいいこと」になったニュースも多い


▼大相撲の八百長問題はどうか。

空前の不祥事とはいえ、誰かの生命財産を損ねたわけではない。

そんな大衆心理に乗じ、日本相撲協会が「ぱんぱかぱあん」と強引に幕引きを図るなら、ファンは離れていこう

▼八百長をしたとして処分された23人のほとんどが、不服ながら引退する。

逆らって解雇となれば退職金が消え、生計に障るからだ。

「相撲がなければただのデブ」。巨漢山本山の自虐が悲しい

▼現役上位や大物師匠らの過去は問わぬまま、全容解明とするらしい。

夏場所は興行ではなく技量審査として公開される。

照明も展望も暗い国技館で、再開ありきの「どさくさ場所」。

無料なら大人気だろうが、それを免罪符としては満員御礼の八百長である。



震災ニュ−スが大きく報道され,その他のニュースが小さくなっている。それが良いかどうかは判らない。









電気の使い道には優先順位があり、
不要不急が多いほど節電の余地も大きい






平成23年4月8日の天声人語よりの引用


震災のずっと前だが、新橋の立ち食いそば屋で照明が突然消えた。

電気を使いすぎたのか、ライスジャーを二つとも切れと店長が叫んでいる。

なるほど、ご飯の保温より電灯や券売機が大切だ。

納得してそばをすするうち、明かりと客足が戻った

▼電気の使い道には優先順位があり、不要不急が多いほど節電の余地も大きい。

そういえば、照明を落とした地下鉄の駅こそパリの明るさだと、仏語教師が懐かしがっていた。

あちらが暗いのではなく、震災前の東京が明るすぎたのだ


▼「ここ10年、けばけばしく外壁を照らす店舗が増えました。

オフィスの照度も千ルクスと過剰。

就寝時の闇との落差が大きすぎて、安眠できない人がいるほどです」。

照明デザイナー、石井幹子(もとこ)さんの指摘だ

▼石井さんは岐阜の世界遺産、白川郷(しらかわごう)を照らすにあたり、10ルクスを確保できる光源を用意した。

それも万一の消火活動に備えた明るさで、通常は雪明かりの趣を損ねない1ルクス。

都会とは桁がいくつか違う。

夜道も3ルクスあれば、近づく人の悪意を10メートル手前で読み取れるという

▼夏の大停電は、大節電で防ぐほかない。

政府は、大きな工場やビルには25%、家庭にも20%の節減を求めるらしい。


需給の見通しを日々伝える「電気予報」も検討されている

▼町工場や病院を泣かせる計画停電ながら、あえて功を探せば節電意識の高まりだろう。

節電とは皆が「そば屋の店長」になること。

照明も空調もほどほどでいい。

「輝ける都市生活」を、薄明の下で省みたい。




戦後間もなくは停電が多く,蝋燭下の生活が多かったことがある。

現在は余りにも電化製品が多くなり電力消費もそれだけ多い。

特に日本だけが衛星から見て輝いている国のようだ。電気の使いすぎ。










映画「フラガール」の舞台は、1960年代の福島県いわき市だ
斜陽の炭鉱は、温泉利用のレジャー施設「常磐ハワイアンセンター」に地域の明日を託した
50キロ先の原発事故が追い打ちをかけた








平成23年4月9日の天声人語よりの引用


炭鉱住宅のつましい夕餉(ゆうげ)。

フラダンサー募集の掲示に心が動く少女(蒼井優)を、母親(富司純子)がきつく諭す。

「こっだ東北の田舎に、なじょしたらハワイなんかできっか」。

映画「フラガール(動画の舞台は、1960年代の福島県いわき市だ

▼斜陽の炭鉱は、温泉利用のレジャー施設「常磐ハワイアンセンター」に地域の明日を託した。

坑内員の娘らも踊りの練習に励むが、閉山近しを思わす新事業の準備は、何かと白眼視された

▼東京から来たダンス講師が訴える。

「この子たちはヤマを救うため、立派にプロのダンサーになりました」。

こうした情熱が炭鉱街をまとめ、「東北のハワイ」は成功した。

後身のスパリゾートハワイアンズは年150万人を集める

▼そこを震災が襲い、50キロ先の原発事故が追い打ちをかけた。

閉山時以上とされる危機を受け、休業中のフラガール約30人が近く、首都圏や東北各地を回るという。

全国巡業は開業前の宣伝以来で、被災地の再生を誓い合うステージになる


▼ボタ山を行楽地に変えたのは、このままでは家族も地域も沈むという危機感だった。

今、石炭衰退に代わる試練は放射能の風評。

毎度回されるエネルギー政策のツケに、福島の苦渋を思う

▼震災の傷を埋めるには、産炭地興しの何倍かのパワーが要る。

その源泉は家族愛や郷土愛だろうが、ダンスの先生にあたる「よそ者」も貴い。

そして誰より、地域や国の将来が己の人生に重なる若い力。

復興の最前列で踊った娘たちのように。





なんとか頑張って復興への足がかりとなってほしい。










仰ぐ桜が盛りの東京で、屈(かが)み見れば地面で野草が春を告げている
植物好きの方なら、この「空色の花」が何か、たちまちお分かりだろう
そうですオオイヌノフグリ








平成23年4月10日の天声人語よりの引用


自然へのまなざしが優しかった歌人、木下利玄に次の作がある。

〈根ざす地の温(ぬく)みを感じいちはやく空いろ花咲けりみちばた日なたに〉。

もう一首〈夕づける風冷えそめぬみちばたの空いろ小花(おばな)みなみなつぼむ〉

▼植物好きの方なら、この「空色の花」が何か、たちまちお分かりだろう。

そうですオオイヌノフグリ


その名は「犬の股間の袋」の意味だ。

先の小欄で「酷な名」と書いたら、「だからこそなじみ深いのです」といった便りを頂戴(ちょうだい)した。

地味ながらこの花、やはりファンが多い

▼まだ風の冷たい早春から、小さく愛らしく咲く。

春の空を映したような四弁の花は、花の中心が白くなっている。

ぱちりと瞳を開いたおさな子の利発さを、見る者に想像させる

▼かつて、その名を不憫(ふびん)に思う人たちが「ほしのひとみ」という別名を提案したと、植物学者の長田武正さんが随筆に書いていた。

長田さんは「こうなると今度はきれいごとすぎて、土の香りが欠けてしまう」。

名前ひとつもなかなか難しい

▼仰ぐ桜が盛りの東京で、屈(かが)み見れば地面で野草が春を告げている。

タンポポの黄とスミレの紫が並び咲く図など、豪奢(ごうしゃ)な桜花に負けぬ気品がある


人間様の独断で「雑草」とひとからげにしては申し訳がない

▼〈漁港古(ふ)り縄と菫(すみれ)と子供かな〉永島靖子。

海の凪(な)いだうららかな午後だろうか。

年年歳歳花相似たり、という。

だが人の世の無常に身を切られるような今年の春だ。

無心に咲いてそよぐ野の花に、知らず励まされている。




小さな花にも名前がある。初めて知る花の名前である。









都政をこの人物の手には渡せない、というのが理由だった
石原現都知事のことだ









平成23年4月11日の天声人語よりの引用


「帰りなん、いざ。

田園まさに荒れなんとす」。

名高い詩句に心境を託して、当時の美濃部東京都知事が3選への不出馬を表明したのは1975年2月だった。

ところが1カ月後、前言を翻して世間を驚かす

▼都政をこの人物の手には渡せない、というのが理由だった。

石原現都知事のことだ。

このとき石原氏は敗れる。

それから36年、都政を渡せる人物がいないと思ったか、今度は石原さんが4選に名乗りを上げた

▼3期目が「最後のご奉公」のはずだった。


田園ならぬ田園調布のご自宅へ「帰りなんいざ」だろうと思われていたが、

――石原氏が出馬表明した3月11日、小欄をここまで書いたところで大地が揺れた。

日常は途切れ、それまでとは異なる時間が流れ始めた

▼案の定、選挙は盛り上がりを欠いた。

首都の知事選といえば、日本の選挙では米大統領選にも似た「民主主義の祭り」なのにである。

告示後の川柳欄には〈どさくさで都知事が決まるような気が〉とあった

▼結果は、高齢も多選批判も、天罰発言への顰蹙(ひんしゅく)もかわして、石原氏があっさり勝ちを決めた。

この非常時、有権者は新顔に賭ける踏ん切りがつかなかったかも知れない。

国難という世の空気が強面(こわもて)を引き立て、かくて悠々と石原都政は続く

▼自民は御年78の石原さんをかつぎ、民主は独自候補を立てられなかった。

1カ月前、地震がなければ小欄は両党の「人涸(が)れ」を突くつもりだった。

この統一選、震災後を担う若い力が各地で羽ばたいていればいいが。





バイタリティに敬服すると同時に利口な計算がある。










津波の不明者はなお千人を数え、
事故原発に近い南部は避難を強いられている
天災と人災が絡み合う、この惨禍の縮図である







平成23年4月12日の天声人語よりの引用


送電用の鉄塔が折れ曲がり、泥にうねる高圧線を見下ろしている。

どの子の部屋から転がり出たのか、傍らに地球儀があった。

褐色の中の青が悲しい。

海と発電、恵みをもたらすべきもの二つが牙をむいた

▼ひと月を経ても、福島県南相馬市は災いの中だった。

波の不明者はなお千人を数え、事故原発に近い南部は避難を強いられている。

天災と人災が絡み合う、この惨禍の縮図である


▼南相馬から福島市に抜ける高地に、新たに避難を指示される飯舘(いいたて)村がある。

際立つ放射線レベルの高さは、風向きや地形の都合らしい。

役場の前に立ち、深く息を吸う。

風の香のように、あると思えばあるし、ないと思えばない。

実害と風評の間は、限りなく透明に近いグレーが満たしている

▼取材2日前から、浴びた放射線の総量を示す線量計を携えた。

福島県内では東京の5倍ほどのペースで数値が増えたが、3日間の積算は胸のレントゲン0.2回分。

むやみに恐れては「風」の思うつぼだ

▼しかし、音もなく変わる表示の不気味さは、永住者でないと実感できまい。

県境を越えて避難した3万4千人の大半が福島県人という。

市町村から安住の地が消える非情が現に進行している


▼〈ただじっと息をひそめている窓に黒い雨ふるふるさと悲し〉。

福島の美原凍子さんが朝日歌壇に寄せた。

1カ月後の不明者が2人だった「阪神」と違い、万の行方が知れず、故郷を離れる人が絶えない。

余震も続く。


私たちはまだ、長い闘いのとば口にいる。




戦中の人の命の軽さに比するぐらいの震災の巨大さを感ずる。

津波にさらわれて海の藻屑と化していった人たちはどれくらいのだろうか。









福島の原発事故が、深刻さのレベルで最悪の「7」に引き上げられた。







平成23年4月13日の天声人語よりの引用


日本のプロ野球が遅い開幕を迎えた。

打者の目標は王さん、長嶋さん、昨今はイチロー選手あたりか。

大リーグのシーズン最多安打など、いくつかの歴代10傑で筆頭にある。

現役を示す※印は、記録はまだ伸びるという勲章だろう

▼こちらの「現役にして頂点」は困ったものだ。

福島の原発事故が、深刻さのレベルで最悪の「7」に引き上げられた。

25年前のチェルノブイリ事故と並んだが、フクシマはまだ事故の最中。

もう上はなく、あとはレベル7の惨状記録が長くなるだけだ

▼四つの原子炉が日替わりで異変を起こし、すでに1カ月以上も放射能を漏らしている。

日本の規制当局が「事故は深刻」と自己申告するまでもなく、内外の印象はとうに史上最悪だった

▼おととい、きのうと、発熱中の原発を震度6級の余震が襲った。

重病人の氷袋がずれ落ちるように、炉を冷やす水が途絶えるトラブルもあった。

断末魔の原発をのせたまま、遠慮なく揺れる大地。

人災と天災の共鳴に、冷えるのは世界の肝である

▼この「恐打者」のユニホームを脱がせるべく、命がけの作業が続いている。

現場の士気にすがるほかないが、ご家族はいたたまれないだろう。

東京電力はせめて、危険に見合う健康管理と報酬を徹底されたい

▼福島を訪れた東電の社長さんは、知事に面会を拒まれ、記者団の前で謝罪して帰った。

放射能に追われた住民にはまだ頭を下げていない。

合わせる顔がないというのは、長い不祥事の歴史でもレベル7に違いない。






先週来、ニューヨークの金相場が空前の高値となった









平成23年4月14日の天声人語よりの引用


ことばの響きが与える印象を音相(おんそう)と呼ぶそうだ。

その道を究めた木通(きどおし)隆行さんの著書によると、濁音はうっとうしくて暗い半面、豪華で重厚な趣を醸す。

たとえばGとDの濁音がまじる「ぎゅうどん」には、不動の安定感があるという

▼同じ音を含む「ゴールド」も信頼では牛丼に劣らない。

腐食に強く、天災や戦火、革命や恐慌をくぐり抜け、最悪の原発事故にもさして動じない。

よく言う有事の金(きん)である

▼先週来、ニューヨークの金相場が空前の高値となった。

リビア内戦で石油がまた上がり、株などのペーパーマネーから資金が流入しているらしい。

震災直後には資金需要を見込んで売られたものの、すぐ右上がりに戻った


▼金の価値を支えるのは、地球を掘り尽くしても総量が直径30メートルほどの球にしかならない希少性だ。

すでに7割が採掘されたが、高相場の後押しで、去年の産出量は9年ぶりに過去最高を更新した

▼うわさで買い、ニュースで売る。

金取引の勘所という。

プロは戦乱やインフレの気配で仕込み、現実となれば高値で手放す。

彼らも慌てた日本の有事は、世界経済の暗雲として当面は金買いの材料とされる

▼ともあれ、鉱物にすがる世は悲しい。

ゴールドの頼りがいは人知不信の裏返し、うち続く混乱に政治経済が対応できていない証しだ。

民主党内の菅おろしには呆(あき)れるが、頼りなく国難を持て余す首相にも問いたい。

市場の侮りを覆す意気はありや。

ここで転べば、濁点が足りない「コールド負け」である。





マネ−ゲームのような現在の資本主義社会の仕組みが理解できない。










沖に流された屋根の上から、3週間ぶりに救われたバン
飼い主と再会し、ちぎれんばかりに尻尾を振る姿に
「家族の絆」を思った







平成23年4月15日の天声人語よりの引用


亡き主人を迎えに渋谷駅に通う秋田犬の悲話を、「いとしや老犬物語」と伝えたのは手前みそながら本紙だった。

昭和の初め、忠犬ハチ公の誕生だ。

死因は寄生虫とされるが、がんも患っていたという。

精勤10年。病身の忠誠はこの動物の才を語る

▼生前に銅像が建ったハチほどではないが、この震災でも「奇跡の犬」が生まれた。

沖に流された屋根の上から、3週間ぶりに救われたバン。

飼い主と再会し、ちぎれんばかりに尻尾を振る姿に、「家族の絆」を思った

▼何匹、何頭が津波にのまれただろう。

人の生死と同列には語れないけれど、ともに生きた何人目かの家族である。

愛犬を助けに戻って濁流に消えた人、家畜の世話のために避難を拒む人もいる

▼やせこけ、放射能の中をさまよう犬や牛馬の姿に、啄木が詠んだ光景の貴さをかみしめる。

〈路傍(みちばた)に犬ながながとあくびしぬわれも真似(まね)しぬうらやましさに〉。

屈託のない犬と、あやかりたいと眺める歌人。

にしてみれば、夢のような退屈である

▼生かされたペットには、仕事がある。

愛する人の不在は埋められないが、小さな命は生きがいとなる。

無垢(むく)に和み、食べさせ寝かせ、頼られることを支えに、再生への長旅に踏み出す方もおられよう

▼「あなたは一人じゃない」といった励ましが、世界中から寄せられている。

絶望の闇を抜け、この言葉の深さを誰かと確かめ合う日々が、被災者に訪れることを願う。

その時あなたに寄り添うのは、一人ではなく一匹かもしれない。



一匹の犬の生存のニュースを聞いて明るい気持ちになれる。









日本の輸出産業は幾多の天災や戦火をくぐり、しぶとく伸びてきた






平成23年4月16日の天声人語よりの引用


野口雨情が「青い眼(め)の人形」を発表したのは90年前である。

〈青い眼をしたお人形は/アメリカ生(うま)れのセルロイド……〉。

19世紀に米国で商標登録された新素材が、人工的な響きで異国情緒を添えた

▼セルロイドは、セルロースや樟脳(しょうのう)など、植物系原料による世界初の汎用(はんよう)樹脂だ。

日本でも明治後期から作られ、昭和の初めには世界一の生産量を誇った。

詩人が「素材」に使った大正時代は、製造の技をわがものに、輸出が増えていく時期にあたる

▼おもちゃ、筆箱などのセルロイド製品が、わが国の近代化を象徴する「化学遺産」に加わった。

震災4日前のことだ。

思えば、日本の輸出産業は幾多の天災や戦火をくぐり、しぶとく伸びてきた

▼今回も、鉄鋼、自動車、電子部品といったお家芸の拠点が被災した。

大きな世界シェアを持つ重要部品が途絶え、米国や韓国でも工場が止まったという。

モノづくりの怖さと深さを思う


▼燃えやすく割れやすいセルロイドは戦後、石油系の素材に代わられる。

こうした技術革新や発明があるたび、日本は得意の分野や製品を乗り換え、存在感のある工業国になった。

その名声と競争力、顧客をつなぐためにも、生産ラインの正常化が急がれる

▼内需と外需がフル回転して、やっとこさの国難だろう。

しかし、開国や敗戦による「断絶」が別の日本を生んだように、時代を画す混沌(こんとん)は目覚めの時でもある。

輝くセルロイドの記憶とキューピーの笑顔を思い起こし、もう一度だけ世界を驚かせたい。




今回の災害は日本産業にも大きな打撃を与えたと思える。世界にも影響を与えている。









東京近辺の桜は数日前から落花がしきり
みちのくを北上する桜前線は、今日はどのあたりか






平成23年4月17日の天声人語よりの引用


ほころび、咲き、散っていく桜の姿は、他の花には抱くことのない想念を人の心に醸す。

東京近辺の桜は数日前から落花がしきり。

細かい光となって風に流れ、木によってはすでに残花か、もしくは葉桜に近い

▼落花の名詩の多い中、〈昔去るとき 雪 花のごとし/今来たれば 花 雪に似たり〉という詩句がある。

6世紀中国の漢詩だから桜かどうか分からないが、雪と花の対比が忘れがたい。

去るときは雪。

戻り来れば花。「別れの詩」という題ながら、季節にせよ人生にせよ、どこか春が巡る喜びが感じられていい

▼みちのくを北上する桜前線は、今日はどのあたりか。

各地で開花が人を励ましている。

福島県いわき市久之浜では先日、津波で根が露出し幹も傾いた一樹が花開いた。

耐えて咲くその姿は、東北の風土と気質を彷彿(ほうふつ)とさせる

▼岩手県陸前高田市の寺にある避難所では今日、花見が行われるそうだ。

がれきの街を見下ろしつつ、人々は開花を待ち望んでいると小紙が伝えていた。

どんな言葉より、花の無言に励まされる心もあろうと思う

▼詩人の大木実は、戦争が終わって命ひとつで復員してきた。

祖国の土を踏んだ心情をうたった作を残している。

〈もういちど はじめから/やり直そう/そう思った/さくらの花を仰ぎながら……〉

▼被災した人には戦後の焦土にも等しいであろう眼前の光景。


惨に耐えて咲く桜木を、心の荒野にそっと移し植える方もおられよう。

雪が花に変わるときが、必ずくると信じたい。





今年ほどに桜を堪能したことは少ない。桜前線は被災地にも自然の理としてやってくる。








「かかあ天下」をもじった「かかあ電化」なる言葉が
1955(昭和30)年ごろに流布したそうだ






平成23年4月18日の天声人語よりの引用


かかあ天下」をもじった「かかあ電化」なる言葉が1955(昭和30)年ごろに流布したそうだ。

一般家庭にも電化の波が広がり始めた時代、高度経済成長の曙である

▼家庭の電化程度は次のようだったらしい。

第7ランクは電灯だけ。

第6はラジオがある。

第5はトースター、電熱器。

第4は扇風機に炊飯器。

第3は電気洗濯機。

第2は電気冷蔵庫。

第1ランクの家にはテレビも電気掃除機もあった(『キーワードで読む戦後史』岩波書店)

▼いまや「第1ランク」でないお宅を探すのは難しい。

さらにエアコン、電子レンジ、その他もろもろが居並ぶ。

洗濯機でも冷蔵庫でも昔は頭に「電気」とつけた。

いつしか消えたのは、電気が空気のような存在になった証しだろう

▼冬は寒く夏は暑い。

この道理に抗(あらが)う利器エアコンが、家庭用電力消費の約25%を占めるそうだ。

夜は暗いという天則を破る照明は約16%。

思えば私たちは、自然の摂理を相手に多大な電気を使っている。

ありのままに少し立ち戻れば、結構な節電が実現しよう

▼電力不足の夏を案じつつ、空調一辺倒で影の薄かった「消夏法」を思い巡らすのはどこか楽しくもある。

打ち水、緑陰、川涼み……。「緑のカーテン」の種をまいて育ててみるのも面白い

▼どのみち温暖化の問題で、野放図な消費には赤ランプがついていたのだ。

眉間(みけん)にシワより、目尻にシワで対処する方が、創意も工夫も湧くだろう。

禍(わざわい)を転じて曙光(しょこう)となす知恵と意志が、私たちにはあるはずだ。




かかあ天下とかかあ電化は相通ずるものを感じる。









東北には今も、大切な人を捜して叫び続ける方が大勢いる
1面にある「被災者数」の欄は、
発生から38日たってなお行方不明の人は1万を超す







平成23年4月19日の天声人語よりの引用


災害のときに誰もが案じるのは大切な人の消息だ。

声を聞くまで、姿を見るまでは、心ここにあらずとなろう。

関東大震災で大勢が避難した東京・上野公園では、一番目立つ西郷さんの像に、尋ね人の張り紙が何百枚も張られたという

▼上野のお山は身内や知人を捜す声が昼夜絶えなかった。

「深更(しんこう)の二時三時頃には、全山の其(その)叫び声が寝耳に徹して、

何とも云(い)ひ知られぬ悲痛の感に打たれた」と、ジャーナリストの宮武外骨(がいこつ)は書き残した。

生きてあれと願う必死の声、声、声で、山全体がうなったのである

▼東北には今も、大切な人を捜して叫び続ける方が大勢いる。

1面にある「被災者数」の欄は、発生から38日たってなお行方不明の人は1万を超す。


奇跡という言葉さえ遠ざかり、「せめて無縁仏にはしたくない」と語る涙に胸がつぶれる

▼岩手県山田町では、ともに後継ぎ息子をさらわれた漁師2人が、海へ出て捜している。

2人の妻は毎朝避難所を抜け出し、岸で名を呼んで泣いていると小紙記事にあった。

喪にも服せぬ人の多さに津波の酷を思う

▼漁師は「避難所の人は表で笑っているけど、皆そんな気持ち。

俺らもそうだ」と言う。

おそらく被災地の「喪の途(みち)」は只事(ただごと)でなく長いのだ。

復興のかけ声に虚(うつ)ろな人を、置き去りにしては進めない

▼被災した人が一人になったときの顔への、想像力を失うまい。

震災前の日本は「待つこと」の苦手な社会になっていた。

最も歩みの緩やかな人を見失わない復興が、いまは大切だ。




行方不明で判らない人たちが余りにも多い。波にさらわれて無くなっている人たちが殆んどだと思う。








誰の中にもある、キラリと光る素晴らしさこそ宝石ではないか。
震災から40日、私たちは様々な宝石を心に留めてきた






平成23年4月20日の天声人語よりの引用


福島県郡山市で隔月に刊行されている児童詩誌『青い窓』を毎号送っていただく。

1958年の創刊だから半世紀の歴史がある。

最終ページに小さく刷られた言葉がいい。

〈素晴らしい人間に出会うのではなく、人間の素晴らしさに出会う〉

▼人は誰も善悪や美醜をないまぜにして生きている。

後光がさすような素晴らしい人は、立派だが、どこか遠い感じがする。

むしろ誰の中にもある、キラリと光る素晴らしさこそ宝石ではないか。

震災から40日、私たちは様々な宝石を心に留めてきた


▼「疾風に勁草(けいそう)を知る」の故事を思い出す。

激しい風が吹いて初めて、強い草が分かるという意味だ。

何も大げさな話ではない。

被災に負けず、地元でボランティアの「青年協力隊」を作った高校生5人もいた。

くじけぬ勁草ぶりも、人間の素晴らしさと言えるだろう

▼半面、疾風は弱い草もあぶり出す。

人ではないが、安全神話の原発はもろくも折れた

かつて小欄で引いた『青い窓』の詩を記憶する方から、福島の子らを案じる便りがいくつか届いている

▼地震の前日に発行された最新号に小2の詩が載っている。

その一節に〈さくらの花がさくころは/うれしさとさみしさが/りょうほう/いっぺんにやってくる〉。

幼心にも出会いと別れの季節という思いはある

▼天災と人災のために、この春、多くの児童生徒が故郷を離れて行った。

学ぶ先々で「人の素晴らしさ」に出会えればいい。

出会いを糧に跳ねるパワーが、若い総身に満ちている。




乱世にこそキラリと光るものにきずく事が多い。








農耕をめぐる春の季語に「種選び」がある
米作りの最初の仕事で
塩水に浸して浮いた籾(もみ)を取り除き
下に沈んだ実の詰まった種籾を選ぶ







平成23年4月21日の天声人語よりの引用


気がつけばきのうは二十四節気の「穀雨」だった。

暖かい雨が田畑をうるおし、野山も緑を濃くしていく。

だが東北の被災地は一昨日から冷雨や雪が降った。

季節の足踏みがもどかしい

▼農耕をめぐる春の季語に「種選び」がある。

米作りの最初の仕事で、塩水に浸して浮いた籾(もみ)を取り除き、下に沈んだ実の詰まった種籾を選ぶ。

〈うしろより風が耳吹く種選み〉飴山(あめやま)實。

やわらかな風を感じながらの作業は、春を待ちかねた農家の喜びであろう

▼その種をまき、苗を作り、初夏にかけて田植えとなる。

映画「七人の侍」のラストシーンを思い浮かべる向きもあろう。

村人総出の晴れやかさ。

田植えは古来、神事であり祭りでもあった。

時は流れたが、集落で手伝い合う「結い」の気風は、今も各地に生きていよう

▼だが今年、津波で冠水や流失の被害を受けた水田は岩手、宮城、福島だけで約2万ヘクタールにのぼるという。

他県の増産でまかなえる。

だから米不足は心配ないと国は言うが、作付けのかなわぬ農家の落胆はいかばかりか

▼きのうのNHKが、原発禍から逃れた人たちが避難先で種まきを手伝う姿を映していた。

どこか生き生きとして見えた。


「生業(なりわい)」という語はもともと、五穀が実るよう務める業(わざ)を言うそうだ

▼その生業の息づく共同体が、細りはしないか心配になる。

どこに限らず復興に際し、古いもの、懐かしいものへ敬意を忘れてはなるまい。

机上の定規では描けないもろもろが、地域の歴史と風土にはあるはずだから。





種まきの季節塩害に侵された土地での稲作は大丈夫なのだろうか。









東電本社と、未経験の危機と闘う現場に
「大本営と前線」の落差が重なる








平成23年4月22日の天声人語よりの引用


玉砕の島、硫黄島の戦いを率いた栗林忠道中将を描くノンフィクション『散るぞ悲しき』は梯(かけはし)久美子さんの力作だ。

書中で梯さんは、軍中枢で戦争を指導した者と前線で生死をかけた将兵とでは、

「軍人」という言葉で一括(ひとくく)りにするのがためらわれるほど違う、と感慨を述べている

▼そして「安全な場所で、戦地の実情を知ろうともせぬまま地図上に線を引き、『ここを死守せよ』と言い放った大本営の参謀たち……」と続けている。

歴史は繰り返すという。

福島第一原発の事故に、その残像を見る思いがする

▼時代も事情も異なるが、東電本社と、未経験の危機と闘う現場に、「大本営と前線」の落差が重なる。

きびしい使命にもかかわらず、伝え聞く作業従事者の処遇はずいぶん酷だ


▼体育館で雑魚寝をし、寝袋は使い回しだという。

これでは疲れは取れまい。

参謀の「作戦」にも疑問符がつく。

たとえば汚染水を止めるために吸水性ポリマーや新聞紙を投入した。

作業員の一人は「そんなもので水は止まらない。

現場はあきれて仕事していました」(週刊朝日)

▼放射能の恐怖に加えて、収まらぬ余震。

テレビの取材に一人が「まさに戦場です」と言っていた。


収束への見通し6〜9カ月は、精神論で乗り切るには長すぎる

▼中国の兵法「三十六計」で名高いのは「逃げるにしかず」。

しかし今は踏みとどまるしかない。


現場と国民に対して欺瞞(ぎまん)の大本営であるなかれ。

東電だけではない。

菅政権への気がかりは、より大である。




下請け会社の人たちの生活をテレビで見ていて大変気の毒に思う。昔の軍隊を彷彿させるような場面である。








詩人の島田陽子さんを知らなくても、
大阪万博のテーマ曲「世界の国からこんにちは」は
大勢が覚えていよう。








平成23年4月23日の天声人語よりの引用


詩人の島田陽子さんを知らなくても、大阪万博のテーマ曲「世界の国からこんにちは」は大勢が覚えていよう。

1970年、三波春夫さんの声で流布した歌は、時代の応援歌そのものだった

▼歌詞は公募で、島田さんの作が1万3千余通から選ばれた。

1カ月ほど寝ても覚めても考え続け、ふと浮かんだ「こんにちは」で詞を組み立てた。

徹夜で仕上げ、当日消印有効のぎりぎりに投函(とうかん)したそうだ。

滑り込みセーフで国民的歌曲は誕生した

▼島田さんの詩は大阪言葉が冴(さ)えわたる。

女の子が、男の子のことを〈あの子 かなわんねん/うちのくつ かくしやるし/ノートは のぞきやるし/

わるさばっかし しやんねん/そやけど/ほかの子ォには せえへんねん/うち 知ってんねん〉

▼続けて〈そやねん/うちのこと かまいたいねん/うち 知ってんねん〉。

男子、形無しである。

東京生まれながら大阪弁に惚(ほ)れ抜いた。

そんな島田さんが81歳で亡くなった


▼6年前にがんを手術した。

病への驚怖(きょうふ)を表したのだろう、昨秋頂戴(ちょうだい)した新詩集に次の作があった。

〈滝は滝になりたくてなったのではない/落ちなければならないことなど/崖っぷちに来るまで知らなかったのだ〉

▼しかし、〈まっさかさまに/落ちて落ちて落ちて/たたきつけられた奈落に/思いがけない平安が待っていた/

新しい旅も用意されていた/岩を縫って川は再び走りはじめる〉。

昭和の応援歌を書いた人が残した、震災後日本への励ましに思えてならない。




世界の国から今日は(動画)










今年の政党交付金の初回分、80億円が国庫から
支払われたという短信が各紙に出た







平成23年4月24日の天声人語よりの引用


情報を絞り込んだ小さな記事は、時に多くを語る。

今年の政党交付金の初回分、80億円が国庫から支払われたという短信が各紙に出た。

震災増税が言われる中、被災者に尽くすべき者が炊き出しに並んでいるような違和感を覚えた

▼民主党42億円、自民党25億円。公平を期して続ければ、公明5億6千万、みんな2億7千万、社民1億9千万、国民新党など4党に数千万ずつ。

制度に反対する共産党を除く各党に、通年ではこの4倍が渡る


▼申請は今月初めというから、義援金が1千億円を突破し、著名人がこぞって私財を供した時期だ。

今回だけでも遠慮するデリカシーを永田町に望むのは、どうやら自販機にスマイルを期待するがごとし。

民に耐乏を訴えながら示しがつかない

▼交付が始まって16年。

すでに5千億円の血税が、集散を重ねる政党の金庫に移った。


企業や団体の献金に代わるはずが、そちらの功は怪しい。

「支持政党なし」が5割の時代、国の施しに頼る政治活動に物申したい納税者もいよう

▼復興を背負う財政はさらに苦しい。

国民負担を求めるなら、国会議員は歳費カットでお茶を濁さず、定数を削るべし

無論、税からの持ち出しが少ない小党が割を食わぬ方法で。

その上で、個人献金を全力で掘り起こせばいい

▼交付金の過半を得る民主党では、有事の緊張が早くも解けたか、またぞろ権力争いが始まった。

国難は政治家の器を試す。

地位と待遇に見合う働きをしているのはどこのだれか、しかと見極めたい。




政党交付金は何に使われているのだろうか。一切の政治への寄付行為は禁止すべきで

本当に市民の為に働く議員たちを選び出すならばこれは徹底すべきだ。

地盤 看板 カバンが物言う選挙では碌な議員しか選出されない。








「場と味」にまつわる洞察を、半年前にも聞いた
「体育館で吸い物を飲んでもうまくない」






平成23年4月25日の天声人語よりの引用


帝国ホテル自慢のステーキについて、総料理長だった村上信夫さんの至言がある。

「おうちに持ち帰って食べてごらんなさい。

味は四割落ちます」。

放送作家はかま満緒(みつお)さんの著書で知った。

名シェフなりの謙遜もあろうが、一流のおいしさは雰囲気や接遇にも支えられる

▼「場と味」にまつわる洞察を、半年前にも聞いた。

「体育館で吸い物を飲んでもうまくない」。

都内で高級割烹(かっぽう)を営む神田裕行さんだ。


かつお節や昆布の淡い味は、狭く静かな空間でこそという趣旨だった

▼体育館でカップ麺をすする被災者の姿に、この言葉を思った。

余震に揺れる照明の下で、寒風の中で、当座の命をつないだのはおにぎりや菓子パンだ。

「味わう」以前の栄養補給である

▼救援物資が届き、自衛隊や有志の炊き出しが始まると、食生活はいくらか豊かになった。

善意の湯気が立つ豚汁、激励のスパイスが利いたカレーは人々を勇気づけている。

とはいえ、避難所の13万人が待ちわびるのは内輪の食卓に違いない


▼薄くても壁があり、メディアの目が届かない個室に、集まれるだけの家族がそろう。

もはやかなわぬ家もあるけれど、卓上が母さん父さんの味ならうれしい。

そんな当たり前のだんらんを許す仮設住宅を早く、と叫びたい

▼どんな状況であれ、食は元気の源だろう。

この災いで、ホテルや割烹にまねのできない場があると痛感した。

いつものおかずを盛ったいつもの皿を、いつもの顔ぶれで囲む夕。

いまや抱きしめたい平凡である。






戦後の日本の焼け跡には食べるものが窮乏し飢えをしのぐのが日本国民全員が直面し

学校の校庭までもが野菜作りの畑に化していた。

どんな空き地にも野菜畑になり,鶏が飼われていた。今でも食に対しては無頓着な素地はある。






旧ソ連のチェルノブイリ原発事故が起きて、今日で25年になる






平成23年4月26日の天声人語よりの引用

旧ソ連のチェルノブイリ原発事故が起きて、今日で25年になる。

規模は異なるが、最悪の惨事に福島第一原発の事故は「レベル7」で並んだ。


原発依存を今後どうしたらいいのか。

きびしい問いが私たちに突きつけられている

▼「白熱教室」で知られる米国ハーバード大のサンデル教授が、日曜の本紙で述べていた。

「丁寧な議論をすること。

絶対に議論を避けてはならない。

賛否両派が相互に敬意を持って、公然と討議できれば、民主主義は深まる」。

このアドバイスの勘所は「敬意」ではないだろうか

▼英首相を務めたアトリーの、こんな言葉を思い出す。

「民主主義の基礎は、他の人が自分より賢いかも知れないと考える心の準備です」。

異なる意見に払い合う「敬意」なしには、議論は言葉による殴り合いとなろう

▼事故後の本紙世論調査によれば、原発を「増やす」という人5%、「現状程度」51%、

「減らす」30%、「やめる」11%。世論二分の中、どの道を選ぶか。

いずれにせよ「あなた任せ」「のど元過ぎれば」の愚は繰り返すべからず、である

▼だが国策を方向づける国会は、どだい論議が心許(こころもと)ない。

茨木のり子さんの詩の一節を借りれば、〈舌ばかりほの赤くくるくると空転し/どう言いくるめようか/どう圧倒してやろうか〉――。

これでは教授の助言からは遠い

▼安全神話は潰(つい)え、いまや事故は起きるのが前提だ。

利権や金儲(かねもう)けではなく人の賢さを高めて針路を決めたい。

敬意をもって未来に迎えられるように。





原子力利用は即刻に排除し,高いお金を使い原子爆弾を作り 高いお金を使い廃棄している馬鹿げた事は

即刻止めるべきである。

原子力は人間が作り出したアダ花である。






広島に原爆が落とされた後、放射能を含む黒い雨が降った
22年前、今村昌平監督の映画で主役を演じたのが、
亡くなった田中好子さんだった
見事な演技で映画賞の主演女優賞を総なめにした






平成23年4月27日の天声人語よりの引用


井伏鱒二が「姪(めい)の結婚」という小説の雑誌連載を始めたのは1965年1月だった。

連載途中でこの作品が「黒い雨」に改題されなかったら、放射能の怖さを象徴する一語は、これほど流布しなかったかもしれない

▼広島に原爆が落とされた後、放射能を含む黒い雨が降った。

主人公の矢須子はその雨に打たれ、体をむしばまれる。

22年前、今村昌平監督の映画で主役を演じたのが、亡くなった田中好子さんだった。

見事な演技で映画賞の主演女優賞を総なめにした

▼田中さんの早すぎる死を悼みつつ、手元の小説を読み直してみた。

矢須子に向けられる偏見や差別への、作家の抑えた憤りが底を流れている。

時代も事態もむろん異なるが、進行中の原発禍を思い合わせてしまう

▼福島県の人が旅館やホテルで断られた。

他県へ避難した子が学校で心ないことを言われた。

などと伝え聞けば、憤りより先に情けなくなる。

風評被害も深刻だ。

「偏見は無知の子どもである」。

箴言(しんげん)の突く真実がやりきれない

▼「もういいよ。福島県人は福島県人だけで生きていくから」という嘆きが、東京で読んだ声欄にあった。

被災地へ寄せる全国の思いも、ときに1人の不届きでかき消える。

二重三重の罪深さだと心得たい

▼「天国で、被災された方のお役に立ちたい」と、泣かせる言葉を残して田中さんは旅立っていった。

キャンディーズのスーちゃんにあらためて惚(ほ)れ直した人は多かろう。

記憶に鮮やかなあの笑顔を人界の不埒(ふらち)で曇らせたくない。





原爆被災記録(動画)








原発禍を案じて外国人は日本を敬遠したままだ
津々浦々、多くの観光地が、かつてない痛手を避けられそうにない






平成23年4月28日の天声人語よりの引用


行く春や鳥啼(な)き魚の目は泪(なみだ)〉の名句を手始めに詠んで、

松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出たのは1689(元禄2)年の3月27日だった。

旧暦だから、今年の暦にあてはめれば明日が旅立ちの日にあたる

▼北へ向かうのに、「時あたかも良し」と芭蕉翁は思ったのだろう。

風光る春から、風薫る初夏へと移る季節は、自然の中に盛り上がるような力がみなぎる。

その力を俳聖は借りようとしたのではないか。

後世、この時期に黄金週間を置いたのは絶妙の配剤といえる

▼その黄金の輝きが、今年はくすんでいる。

震災の衝撃はあまりに大きく、大勢の胸から「旅ごころ」を吹き消した。

原発禍を案じて外国人は日本を敬遠したままだ。

津々浦々、多くの観光地が、かつてない痛手を避けられそうにない

▼9・11後の米国もよく似ていた。

旅行者は減り、繭ごもりを意味する「コクーニング」という言葉が流布した。

「日常に戻ろう」と為政者は叫んだが、笛吹けど踊らず。

トンネルを抜けるのに長くかかった記憶がある

▼半面、繭ごもりで家族や身近な共同体の絆は深まったとされた。

ならば一石二鳥、GWは家族で大いに旅すべし、と我が単純な頭は考えるが、いかがだろう

▼古典に戻れば「徒然草」の兼好法師も旅を勧める。

〈いづくにもあれ、しばし旅立ちたるこそ目覚むる心地すれ〉。

リフレッシュには旅が一番、だと。

早く旅ごころを取り戻したい。

物見遊山と言うなかれ。がんばろう日本の、花も実もある実践になる。




日本全体が被爆による放射線被害を被り外国の観光客が激減している。

それほどに誰もが放射能を恐れるにも拘わらす何故に原子爆弾保有国が

強大な国家として原爆を保有したがる国の心理が理解できない。







英国のウィリアム王子とケイト・ミドルトンさんがきょう結婚式を挙げる





平成23年4月29日の天声人語よりの引用


英国のウィリアム王子とケイト・ミドルトンさんがきょう結婚式を挙げる。

慶事の記事を読みながら皇后陛下の詠まれた歌が胸に浮かんだ。

〈かの時に我がとらざりし分去(わかさ)れの片への道はいづこ行きけむ〉。

戦後50年が過ぎた年の一首である

▼つたない解釈を加えるなら、「あの時に選ぶことのなかった分かれ道の片方は、どこへ通じていたことでしょう」となろうか。

人生一般の感慨とも読めるが、民間から皇室に入られた皇后さまの作と思えば、味わいはひとしお深い

▼ケイトさんも「庶民の王室入り」で、英国内は祝福の声がしきりだという。

今も階級意識の強いお国柄だけに格好の話題らしい。

報道は過熱ぎみ、経済効果の試算は840億円と聞いて、半世紀前のミッチーブームを重ね合わせる方もおられよう

▼1993年の6月のこと、欧州取材の機上で隣席の英国紳士に「日本から?」と聞かれた。

イエスと言うと「おめでとう」と握手をされた。

戸惑っていると「ロイヤルウエディングだよ」。

皇太子さま、雅子さまを祝してくれたのだった

▼自国、他国を問わず、英国人は「王室ずき」だ。

総批評家と言われ目は肥えている。

喝采がブーイングに変わりやすいのが、かの王室の宿命らしい。

新婦には、甘いばかりのシンデレラ物語ではない

▼人は誰も、ありえたかも知れない別の人生を「分去れ」のかなたに見送って歩んでいく。

ケイトさんもまたしかり。


王子と2人、手を携え合う前途を、遠くより祝福申し上げる。




報道では英国でウイリアム皇子が国王になれる可能性は50%とする中で,日本は万世一系の天皇がつづくなのだろうか。

第二次大戦で戦争に大きく関与した昭和天皇だけが天寿を全うされたことの不思議さ、

現代における君が代の斉唱強制の傾向をどのように考えれば良いのか,民主国家の時代に改めて考え直すべきである。

時代の流れは小さい間は止められるが,大きくなれば一億一心総玉砕の時代に突入していった時代があったことを

重く受け止めなければならないことである。








惨禍に刻む4月の言葉から





平成23年4月30日の天声人語よりの引用

未曽有、壊滅的、空前絶後……最も激しい言葉さえ、いつしか空疎にすり切れた。

それほどの現実の中で、人は前へ歩みゆく。

惨禍に刻む4月の言葉から

▼北上する桜前線が人を励まし慰めた。

岩手県大槌町の花見会で、樹齢100年の根元のひこばえに小さな桜が咲いていた。

かがみ込んだ小国ヤスさん(79)は避難所暮らしが続く。

「上ばかりじゃなく、下を向いて見つけるものだってあるんだなぁ」。

春風はまだ瓦礫(がれき)のにおいだ

▼同県山田町の佐藤啓子さん(33)は軽い知的障害がある。

高台の避難所から海を見つめて鎮魂の詩を書いた。

「流れた人はずっと海にいる訳じゃないよ かぜひくよ お空になり 太陽になるよ みんなを守ってるから みんなも海とお空を見ようね」

▼漁業はきびしい試練に立つ。

宮城県南三陸町の漁師三浦幸哉さん(52)は、大漁旗2本を自宅跡に掲げた。

「漁師はカモメと同じだでば。

海に出ないと駄目なんだでば」。

腕を競い合った仲間が多く落命した。

彼らの分も漁で取り返す、と

▼魚の仲買人鈴木吉夫さん(60)は同県七ケ浜町の家が津波で流された。

どん底から商売再建を誓う。

「大事なのはやる気だべ。

自然もすごいけど人間もすごいっちゃ。

昔から何度も立ち上がってきた」


▼チェルノブイリに通って映画を作った監督の本橋成一さん(71)が「人は今こそ謙虚にならないといけない。

少しずつ暮らしの『引き算』をするときがきたんじゃないか」。

消尽の時代から未来に、我々は何を手渡す。







関東大震災と後藤新平



後藤新平が関東大震災後の東京の復古に活躍したことは知っているが具体的なことについてあまり詳しくは知らない。

後藤新平とはどのような人物かネットで調べてみることにする。医師だったことはあまり知られていない。

須賀川医学校は独立行政法人国立病院機構福島病院 ・ 公立岩瀬病院 :明治初期には須賀川医学校も併設。後藤新平等を輩出したとある

名古屋大学医学部の前身,愛知県立医学校で教鞭をとっていたことは聞いたことはある。

東北出身で今回の震災とも関連地域した出身者でもある。-以下インタ−ネットよりの引用-

後藤 新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師官僚政治家である。

伯爵(明治39年(1906年)男爵、大正11年(1922年)子爵、昭和3年(1928年)伯爵)。位階勲等は正二位勲一等台湾総督府民政長官。

満鉄
初代総裁。逓信大臣内務大臣外務大臣東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。

東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名された、日本の植民地経営者であり、『都市計画家』である。

台湾総督府
民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道を整備した。

関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した(都市計画の項も参照推奨)。

生い立ち・医師時代

陸奥国胆沢郡塩釜村(水沢市を経て、現在の奥州市)出身。留守家家臣・後藤実崇の長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の大叔父に当たり、

甥に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者鶴見和子哲学者鶴見俊輔演出家佐野碩をもつ。

胆沢県大参事であった安場保和にみとめられ、後の海軍大将・斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ県庁に勤務しのち15歳で上京し、

東京太政官少史・荘村省三のもとで門番兼雑用役になる。

安場との縁はその後も続き、安場が岩倉使節団に参加して帰国した直後に福島県令となると後藤は安場を頼り、16歳で福島洋学校に入った。

後藤本人は最初から政治家を志していたとされるが母方の大伯父である高野長英の弾圧等の影響もあって医者を勧められ、

恩師・安場や岡田(阿川)光裕の進めもあって17歳で須賀川医学校に気の進まないまま入学。

ただし同校では成績は優秀で卒業後、山形県鶴岡の病院勤務が決まっていたが安場が愛知県令をつとめることになり、

それについていくことにして愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。

ここで彼はめざましく昇進し24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。

またこの間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助を診察している。

この際、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と言ったという。

後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。

またこの時期安場の次女、和子を妻にもらう。

明治14年(1881年)、愛知県千鳥ヶ浜に海水浴場が開かれるが、これは後藤の指導によると伝えられている。

この前年に開設された日本最古の医療目的の海水浴施設沙美海岸(岡山県倉敷市)に次ぎ、

同じ年に開設された富岡海岸(横浜市金沢区)、兵庫県須磨海岸に並ぶもので、医療としての海水浴に先見の明を持っていた。

医師として高い評価を受ける一方で、先進的な機関で西洋医学を本格的に学べないまま医者となったことに、強い劣等感を抱いていたとも伝わっている。

明治15年(1882年)2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも官僚として病院・衛生に関する行政に従事することとなった。

明治23年(1890年)、ドイツに留学。西洋文明の優れた部分を強く認める一方で同時にコンプレックスを抱くことになったという。

帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、明治25年(1892年)12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。

明治26年(1893年)、相馬事件に巻き込まれて5ヶ月間にわたって収監され最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する破目となった。

「生物学の原則」に則った台湾統治

明治28年(1895年)4月1日、友人の推薦で復帰。日清戦争の帰還兵に対する検疫業務に広島・宇品港似島臨時陸軍検疫部事務長官として従事し、

その行政手腕の巧みさからこの件の上司だった陸軍参謀児玉源太郎の目にとまる。

明治31年(1898年)3月、その児玉が台湾総督となると後藤を抜擢し、自らの女房役である民政長官とした。

そこで後藤は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。

こういった手法を後藤は自ら『生物学の原則』に則ったものであると説明している(比喩で「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない」と語っている)。

それは「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。

よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」というものだった。

台湾の調査事業

まず台湾における調査事業として臨時台湾旧慣調査会を発足させ、京都帝国大学教授で法学者の岡松参太郎を招聘、また自らは同会の会長に就任した。

また同じく京都大学教授で法学者織田萬をリーダーとして、当時まだ研究生であった中国哲学研究者の狩野直喜、中国史家の加藤繁などを加えて、

清朝の法制度の研究をさせた。

これらの研究の成果が『清国行政法』であり、その網羅的な研究内容は近世・近代中国史研究に欠かせない資料となっている。

人材の招聘

開発と同時に人材の招聘にも力を注いだ。

アメリカから新渡戸稲造を招いた際には、病弱を理由に断る新渡戸を執務室にベッドを持ち込むことなどの特別な条件を提示して結局承諾させている。

スカウトされた新渡戸は、殖産局長として台湾でのサトウキビサツマイモの普及と改良に大きな成果を残している。

また、生涯の腹心となった中村是公と出会ったのも台湾総督府時代だった。

阿片漸禁策

当時は、中国本土と同様に台湾でも阿片の吸引が庶民の間で普及しており、これが大きな社会問題となっていた。

また「日本人は阿片を禁止しようとしている」という危機感が抗日運動の引き金のひとつともなっていった。

これに対し後藤は、阿片を性急に禁止する方法をとらなかった。

まず阿片に高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として次第に常習者を減らしていく方法を採用した。

この方法は成功し、阿片常習者は徐々に減少した。

総督府の統計によると、明治33年(1900年)には16万9千人いた阿片常習者は大正6年(1917年)には6万2千人、昭和3年(1928年)には2万6千人にまで減少している。

こののち総督府では昭和20年(1945年)に阿片吸引免許の発行を全面停止、施策の導入から50年近くをかけて台湾では阿片の根絶が達成された[1]

満鉄総裁

明治39年(1906年)、南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。

ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、

満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

また満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄内に調査部を発足させている。

当時、清朝の官僚の中で満州に大きな関心を持っていたのは袁世凱を中心とする北洋軍閥であり、

明治40年(1907年)4月の東三省建置に当たっては彼の腹心である人物が多く要職に配置された。

彼らは日本の満州における権益独占を好まずアメリカを盛んに引き込もうとし、その経済力を以って満鉄に並行する路線を建設しようとした。

これは大連を中心に満鉄経営を推し進めていた日本にとって大きな脅威であった。

そこで新平は袁に直接書簡を送ってこれが条約違反であることを主張し、この計画を頓挫させた。

ただし満鉄への連絡線の建設の援助、清国人の満鉄株式所有・重役就任などを承認し、反日勢力の懐柔を図ろうとしている。

また北満州に勢力を未だ確保していたロシア帝国との関係修復にも尽力し、満鉄のレールをロシアから輸入したり伊藤博文とロシア側要路者との会談も企図している

(ただしこの会談は伊藤がハルピンで暗殺されたため実現しなかった)。

当時の日本政府では満州における日本の優先的な権益確保を唱える声が主流であったが、

後藤はむしろ日清露三国が協調して互いに利益を得る方法を考えていたのである。

拓殖大学学長

大正8年(1919年)、拓殖大学(前身は桂太郎が創立した台湾協会学校)学長に就任(在職:大正8年(1919年)8月2日-昭和4年(1929年)4月13日)。

拓殖大学との関係は台湾総督府民政長官時代、設立間もない「台湾協会学校」の良き理解者としてたびたび入学式や卒業式で講演をし物心両面において支援していたが、

大正8年(1919年)より第3代学長として直接拓殖大学の経営に携わることとなった。

そして当時発令された大学令に基づく「大学(旧制大学)」に昇格すべく各般の整備に取りかかり、

大正11年(1922年)6月、大学昇格を成し遂げるなど亡くなる昭和4年(1929年)4月まで学長として拓殖大学の礎を築いた。

学内での様子は当時の記録として「後藤先生は学生に対しては慈愛に満ちた態度を以て接せられ、

学生もまた親しむべき学長先生として慈父に対するような心安さを感じていました」と当時の記録にあるように学生達に心から慕われていた。

当時の邸宅は、水道橋駅から後楽園方面に降りて秋葉原方向の坂道を登る途中にある、昭和第一高校の前の公園であった。

関東大震災と世界最大規模の帝都復興計画

第2次桂内閣で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(在職:明治41年(1908年)7月14日 - 明治44年(1911年)8月30日)、

寺内内閣内務大臣(在職:大正5年(1916年)10月9日 - 大正7年(1918年)4月23日)・外務大臣(大正7年(1918年)4月23日 - 9月28日)、

しばし国政から離れて東京市長(大正9年(1920年)12月17日 - 大正12年(1923年)4月20日)、

第2次山本内閣
で再び内務大臣(大正12年(1923年)9月2日 - 大正13年(1924年)1月7日、後述)等を歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でたまらない」と揶揄された。

しかし、今日のJR九州肥薩線にその名前を取った「しんぺい」号が走っている。

関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。

それは大規模な区画整理公園幹線道路整備を伴うもので、13億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約1年分)のため財界等からの猛反対に遭い、

当初計画を縮小せざるを得なくなった(議会に承認された予算は5億7500万円)。

現在の東京都市骨格公園公共施設の整備をしたものの、後藤の独裁的な政策は地主・地権者の私有財産権を無視しており、

今日でも厳しい批判をあびている。

この復興事業は、パリの区画整理をモデルにしたものであり、既成市街地における都市改造事業として、後藤の独自の発想とは言えない。

道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小されながらも実際に建設された。

当初の案ではその幅員は広い歩道を含め70mから90m、中央または車・歩間に緑地帯を持つという大規模なもので、

自動車が普及する以前の時代では受け入れられにくかった。

現在、それに近い形で建設された姿を行幸通りなどで見ることができる。

現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っていると言ってよく、特に下町地区では帝都復興事業以降に新たに街路の新設が行われておらず、

帝都復興の遺産が現在インフラとしてそのまま利用されている。

また、昭和通りの地下部増線に際し、拡幅や立ち退きを伴わず工事を実施でき、その先見性が改めて評価された事例もあり、

もし彼が靖国通り明治通り山手通りの建設を行っていたとしても、現在の東京で頻繁に起こる大渋滞は継続していたと言える。

一方で、後藤による都市計画は、東京の都市機能拡充の引き換えに江戸以来の情緒を喪失させ、「東京を無機質な町に変質させてしまった。」との批判もある。

しかし、帝都復興事業が行われた区域は震災の大火災によって灰燼と化した地域に限定されており、

また、関東大震災以前にも東京が震災や火災による被害を受けていたため、そもそも江戸の情緒を残す町並みはほとんど残されていなかったこと、

震災前の東京は交通や衛生など現在にも共通する多くの都市問題を抱えていたことなどを考慮すると、「江戸の情緒を喪失させた」という批判は不適切なものである。

ただし、帝都復興予算が削られたために復興委員会は買収費用がかからない共有地の杜を潰し掘割を埋めたことにより、

ロンドン
ニューヨークパリ等の大都市と比しても圧倒的に森が少ない点や、

自治のプロを任じながら時代の流れののままに都市問題解決の中核となる地域コミュニティの結束点を破壊している点が問題として指摘されている。

ソ連外交とその後

大正12年(1923年)、東京市長時代に国民外交の旗手として後藤・ヨッフェ会談を伊豆の熱海で行い、成立せんとしていたソビエト連邦との国交正常化の契機を作った。

ヨッフェは当時モスクワに滞在していたアメリカ共産党員・片山潜の推薦を受けて派遣されたもので、

仲介したのは黎明会を組織した内藤民治田口運蔵等の社会主義者であった

。一部から新平は「赤い男爵」といわれたが、あくまで日本とロシアの国民の友好を唱え、

共産主義
というイデオロギーは単なるロシア主義として恐れず、むしろソビエト・ロシアの体制を軟化させるために、日露関係が正常化される事を展望していた。

大正13年(1924年)、社団法人東京放送局が設立され、初代総裁となる。試験放送を経て翌大正14年(1925年)3月22日、日本で初めてのラジオ仮放送を開始。

総裁として初日挨拶を行った(大正15年(1926年)、東京放送局は大阪放送局、名古屋放送局と合併し、社団法人日本放送協会に発展的解消する)。

昭和3年(1928年)、後藤はソ連を訪問しスターリンと会見、国賓待遇を受ける。

少年団日本連盟会長として渡航。その際、少年達1人が1粒を送った米による握り飯を泣きながら食べ渡航したという。

当時の情勢的に日中露の結合関係の重要性は後藤が暗殺直前の伊藤博文にも熱く語った信念であり、

田中義一内閣
が拓務省設置構想の背後で構想した満洲委任統治構想、もしくは満洲における緩衝国家設立を打診せんとしたものとも指摘されるが

、詳細は未だに不明である。後の満鉄総裁・松岡洋右日ソ中立条約締結に訪ソした際「後藤新平の精神を受け継ぐものは自分である」と、

ソ連側から盗聴されていることを知りつつわざと大声で叫んだとされる。

なお、しばしば総理大臣候補として名前が取り沙汰されながら結局就任できなかった原因として、

第3次桂内閣
の逓信大臣当時の第一次憲政擁護運動で前首相にして政友会総裁の西園寺公望の失脚を画策し、

最後の元老となった西園寺に嫌われていたことが大きいと徳富蘇峰が語っている。

晩年

明治36年(1903年)、貴族院勅選議員となり、終生在籍した。

晩年は政治の論理化を唱え各地を遊説した。

昭和4年(1929年)、遊説で岡山に向かう途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。

三島通陽の『スカウト十話』によれば、後藤が倒れる日に三島に残した言葉は「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。

仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ
」であったという。

逸話

ボーイスカウト制服姿の後藤新平

著作

伝記

研究書

その他

関連項目

外部リンク




今回の大震災にあたり,関東大地震の時の後藤新平に当たるような人物はどのような人が現在の政治家にいるのだろうか。

大胆な発想と決断が必要で<後世にも大きな影響を与えることになるだろうと思うわれる。

関東大地震では偉大な人物により将来を見据えた復興がなされている。
,
後世に現在のの政治家が後藤新平に匹敵するような評価を得ることができるのだろうか。


戻る                                  3月分    4月分   5月分